世界で一番遠い場所


「吉本、例の新システムの説明して来なかったろ? お前が帰った後で電話ががあって使い方が良くわからんってぶうぶう言われたんだぞ。」

 またか...

 僕は、しがないSEという仕事をしている。SEと言っても色々あるが、僕の場合はお客さんのところへ行って仕事を取ってきて、自分でシステムの仕様書を作って、そのままプログラムを組んで、出来上がったら自分で納品するという、言ってしまえばシステム設計の始まりから終わりまで、全部自分でやってしまうというSEなわけだ。昔、と言うか今でもやっているんだけど、普通システムを作るとなると、まず営業マンが仕事を取ってきて、営業マンの話を聞きながらSEが仕様書を作って、PGがプログラムを組んで、完成したプログラムをSEが検収して、一番最後に営業マンが納品に行くというのが普通のやり方なんだ。でも、最近では不景気の影響だか大きな仕事が見つからないのと、あんまりにも多人数でシステムを組んでしまうと意思の食い違いが生じやすいという欠点をカバーすべく、こういう営業マンとPGを兼任するSEが増えている。

 ・・・で本題に戻るが、昨日僕は1週間会社に泊まり込んで作ったシステムを1つ納品に言ってきた訳だ。それと言うのも、僕の見積もりで行くと何週間もかかりそうなシステムを、どうしても1週間で欲しいと言う無茶なお客様の要望があったからだ。正直なところ、僕は断るつもりでいた。確かに欲しい気持ちはわかるが、出来合いの品物を持って行ったらしまいという商売(それでも生産が間に合わなかったらお客様に待ってもらうより他にないのだが)ならともかく、こういう完全にハンドメイドの商品を扱っているんだから、作るのに時間がかかるのは当然と言うもの。ところが、このお客は「出来合いの物だから、どうにでもなるだろう」と全然わかってくれない。これを係長に相談したら、「そんなもん断固として断れ。何だったら俺が断ってやろうか。」とあっさりと言われてしまった。まあ、僕も断りたくてしょうがなかったから、ここは一つ係長に頼もうと思った。そして、係長はそのお客のところに断りの電話を入れた。・・・と、ここまでは良かった。しかし、この係長、お客に完全に言いくるめられたのか、さっきと正反対のことを言い始めたのだ。「吉本、泊まり込んでもその辺の人間を使っても何やってもいいから、1週間で作ってくれ。」と言う訳だ。言わば、ミイラ取りがミイラになって帰ってきた訳だ。かくして、僕は1週間会社に泊まり込んででもこのシステムを作る羽目になった訳だ。

 それだけじゃない。実は、この1週間の泊まりが原因で、彼女と電話で喧嘩して来たのだ。それと言うのも、だいぶ前から一緒に行こうって行ってた西武球場でのコンサートが、この勝手なお客様のせいでおじゃんになったのだ。このコンサートと言うのが大学時代に付き合い始めてから毎年ずっと行ってた渡辺美里のコンサートだった。僕も正直言って前から楽しみにしてたし、彼女もまた前から楽しみにしてたから、こんな理由でキャンセルなんて納得できるわけがないってわかってはいた。そこをあえてキャンセルしようなんて言うんだから、彼女が納得するわけがない。

「何よ。仕事仕事って、私と仕事とどっちが大事だと思ってるの! 大学時代は、もっとあっちこっち連れてってくれたのに、なんで...」

 こうやって電話の前で大泣きされたら、僕もたまらない。だって、僕だってこんな仕事よりも彼女の方を取りたくてしょうがないんだから。ほとんど受話器を投げ出すような電話の切り方されて、僕の方が大泣きしたいぐらいだ。

 そして、お客が欲しがるようなシステムを作って、昨日納品に行って、ちゃんと説明までしてきた。で、そのお客も「わかりました」と言ってたのに、次の日にはこのありさまだ。早速電話してみると、原因はお客の操作ミス。しかも、昨日あれだけ「これだけはやるな」と説明したばっかりなのに。これを係長に報告したら、結局はお前がちゃんと説明してないからと言うことになってしまった。挙げ句の果てには、「説明したって言うけど、ちゃんと文書って形で相手に渡したか?」なんて話になってしまった。で、遅れ馳せながらと言うか説明の文書を作って、昨日の原因も書いたら、「いや、こうやってやってはならんことを明示したらいやらしいから・・・」なんてことを言われてしまった。何しろ、僕が物事を進めたら「何で相談しなかった」と言うくせに、相談しに行ったら「それぐらい自分で考えろ」なんて返事をする係長のこと。半ば諦めの極致である。

「やっぱり帰ろうかなぁ・・・」

 会社の帰り道、ちょっとだけ寄り道して買ってきたハンバーガーをほおばりながら、こんなことを考えていた。大学へ進学するとかで田舎から出てきて、そのまんま就職したから、このアパート生活ももう7年目。大学に入学した頃、何しろ誰も制服を着てなかったし、見るもの全てが新しかったし、毎日が新しい発見ばっかりでわくわくしてた。それが、回りの様子がわかってくるにつれて新鮮さも失って、会社に入ってみんな背広姿って感じで以前のような窮屈さを感じていた。もしかしたら、このまま何10年とこの会社にいて、嫁さんもいて子供もいて、見せかけ上は何不自由なく暮らしていくのかなと思うと逆に寂しくなった。どうせ外には出たくないと、惰性のように見続けているテレビにもちょっとだけ飽きてきたように思う。

 ある朝、朝の早くから雨が降っていた。僕はいつものように背広を着て、髭も剃って、いつも持ち歩いているセカンドバッグを手に会社へと向かった。ここから歩いて15分のところに、駅がある。そこから会社までは一度乗り換えないといけない。朝は大抵急行か準急しか来なくて、会社へ行こうと思ったら準急に乗って次の駅で各駅停車に乗り換えないといけない。で、僕はいつものようにすし詰めで息もできないぐらいの準急に乗って次の駅で降りたところ、ネクタイをつけていないのに気がついた。僕は大慌てで改札をぬけて、近くのコンビニに行ってみたらネクタイは売っていなかった。かと言って、今から取りに帰ったところで確実に遅刻だ。僕は、何を思ったのかまた準急に乗ってしまった。ふと窓の外を眺めていると、会社がはるか遠くに見えた。そこを、準急は猛スピードで通過して行く。僕は、大きくため息をついた。そんな僕の気持ちを知るわけもないまま、準急は僕を終点へと連れて行ってくれた。終点はビジネス街で、降りて行ったお客は吸い込まれるかのように地下鉄の改札へと歩いて行く。左腕を眺めてみると、時計はすでに定時を回っている。今更電話する気にもなれないから、僕はどうしようかとあてもなくぶらぶらしていた。すると、駅に公衆FAXがあることに気がついた。これを使えば、誰と話す必要もなくメッセージを送る事ができる。僕は、一言だけ会社にメッセージを送った。「どうか探さないでください」と。メッセージがFAXに吸い込まれ、再び掃き出され、送信終了を示すピーっと言う音が鳴った時、僕は初めて事の重大さに気がついた。そりゃあ確かにいつ首になってもいいと思っていた会社とは言え、何と言うことをしてしまったのだろう、と。僕は、急に寂しさが込み上げてきた。会社には戻れない、でも部屋に帰る気にはなれない。僕は、よなよな地べたに座り込んだ。その時、きっと会社では一時的にパニックになったであろう。でも、もう何時間もすれば平穏を保っているはず。例えば、ここで大災害が発生して全従業員の半数近くが行方不明になったとか、日常起こり得ないと思える事でも起こらない限りは会社という物は動いていくんだなと思うと、自分は今まで一体何をしてきたんだと考えたくなる時がある。

 僕は、思い切って地下鉄の出口を駆け上がってみた。朝から降ってた雨は上がって、相当蒸し暑かった。高層ビルの森の麓を歩くサラリーマンやOL達は、あまりの暑さにさっさと上着を脱いで、半袖姿の夏服が青空に新鮮だった。僕は恐る恐る、彼女の会社に電話した。実は会社を辞めて来たなんて言ったら、なんて言われるだろう。僕はちょっとだけ恐ろしくなった。

「やっぱりね・・・多分そうじゃないかってわかってたんだ・・・。」

 ほら来た。これは、別れ話をした後、不本意ながらも別れようとする時の女の子が言う台詞だ。しかも、電話の向こうでは、すすり泣きする彼女の声が聞こえる。これは絶対に別れだって思った瞬間、彼女はこう言った。

「だって、嬉しいんだもん。やっぱり仕事よりも私の方が大事だって。私わかってたんだ。あの仕事、絶対向いてないって。嬉しいよ。ほんとに。」

 今仕事中だと言うのに、今にも大泣きしそうな彼女。

 かくして僕は、りりしい失業1年生になった。これから僕は何をやっているかわかんないけど、少なくとも流されるままに生きていくのだけはやめようと思う。ちなみに、仕事で見逃した渡辺美里のコンサートは、今彼女と一緒にビデオで見ている。彼女が友達からダビングしてもらったらしい。

「来年こそは、本物を見に行こうな。」

 彼女とは、早速こんな約束をしてる。