虹をみたかい


 渋滞につかまるのが嫌だからと、地下鉄で出勤。オフィス街の一角にある、小さなビルに事務所がある。事務所の鍵を開けて、一番奧の机に座る。昨日自宅で作りかけてたフロッピーを、ワープロにセットする。昨日は、午前3時ぐらいまで仕事してた。いい加減に眠くなって、明日の仕事に差し障りがあるからと、自分をなだめてベッドに入った。けど、そのつけがしっかりと残ってたって感じかな。中途半端に寝てるから、かえって頭が回らない。昨日の晩はもうちょっとキーボードのタッチが良かったような気がするけど、今朝は考えても考えても一向に進まない。そこへ、お得意さんから催促の電話。早く企画書が欲しいと言ってる。僕だって早いとこ仕上げたくてしょうがないけど、頭が回らないんだからどうしようもない。誰かコーヒーでも入れてくれと言っても、返事がない。そりゃそうだ。今日は土曜日で、事務の女の子は休みなんだから。

 僕がこの事務所を構えてから、もう2年になる。その前は、とあるメーカーの営業やってた。でも、商品の企画が好きだったから、企画会社を作った。企画と言っても、店舗のレイアウトからメニュー構成、商品企画、その他諸々のアイデアを出す会社だ。最初の内は仕事がなくて、昼間は今やってるような仕事をやって夜はコンビニでバイトなんて言う日が続いた。その時はその時で、いつか仕事が軌道に乗ったらって言う気持ちだけで頑張ってきた。今ではこの仕事だけで食っていけるようになった。それだけじゃない。仕事が忙しすぎて、ぎちぎちのスケジュールで動くようになった。僕は、むしろ喜んでいる。

 喜ばしいのは、何も仕事にありつけているだけじゃない。そもそも、これだけハードな仕事をこなしている本当の理由というが、真梨の事を忘れたいから。前の会社で営業マンをしていた頃、僕が座っていた机のある島にたった一人だけ居た女の子と言うのが、この真梨だった。真梨と僕は同い年だったけど、真梨の方が短大卒だった分の2年間先輩と言うことになる。僕は、真梨から色々と仕事のことを教えてもらってたし、色々な事を聞いたりもした。2年先輩とは言っても同い年だったから、会社の中でも一番身近で話しやすかったのかもしれない。

 僕が入社して3ヶ月ほどした頃、取引先に届けるはずだった書類を忘れてしまった。気付いたのは、取引先の最寄り駅に着いた後。まずいと思った僕は、取り合えず会社に電話をした。幸いと言うか、電話に出たのは真梨だった。かくかくしかじかと理由を説明したら、「すぐ行くから、待ってて。」と小さな声で指示された。僕は、言われた通りに地下鉄の駅のすぐそばの喫茶店で待っていた。あれからどれだけ待ったか、私服姿の真梨が書類を持って現れた。「私はここで待ってるから、取り敢えず書類を渡してきたら?」と言われて、僕はなぜ真梨がこの喫茶店で待っているのか不思議に思いつつも、言われた通りに書類を渡してきた。さっきの喫茶店に戻ってみると、真梨がアイスコーヒーを注文していた。僕は素直にお礼を言った。

「ねぇ、それよりもうちょっとゆっくりして行かない?」

 と真梨は言った。そんな事して時間は大丈夫かと聞いたら、「時計を見てごらん」と言われた。左腕を眺めてみると、時計はすでに定時を回っていた。

「直帰よ。道に迷ってましたとでも言い訳したら、何とかなるんじゃない? もっとも、次からはそんな言い訳通じないかもしれないけど。」

 真梨は、涼しげな顔でこう言った。僕は、取り敢えず会社に電話して、直帰すると報告だけ入れた。しかし、真梨は一向に電話をする気配すらない。大丈夫なのかと聞いてみたら、こんな返事が返ってきた。

「OLの特権よ。体の具合が悪いからって、会社早退しちゃった。」

 なんとまあしたたかなもんだと思っていた。

「その代わり、高いわよ。今からちょっと付いてきなさい。」

 なんて言われて、黙ってついて行ってみると行き先は居酒屋だった。チューハイを開けながら、何やら世間話に花を咲かせていた。もう3杯目のチューハイを開けたかと思うと、真梨はこう言った。

「実はね、今日はチャンスだと思ったの。だって私、花山君のこと好きだったんだもん。本当よ。」

「えっ、じゃあこれは川越さんが・・・」

「お願い。真梨って呼んで。だって、同い年なんだよ。」

 こんな話を聞いた僕は、完全に有頂天になっていた。そこから先は記憶にないけど、気がついたら僕は真梨のマンションにいた。真梨は、2歳下の妹と一緒に住んでいるそうだ。じゃあ、その妹はどうしたのかと言えば、昨日の晩は夜勤だったから帰って来なかったのだそうな。この事件以来、僕と真梨は急に接近した。とは言え、社内恋愛に関してはうるさい会社だとかで、会社の中では平穏を保っていた。今から思えば、あの時ほど週末が待ち遠しくて仕方がない時はなかった。

 ところが、これがひょんなことから会社にばれた。僕は上司に呼び出され、新入社員ともあろう者が社内恋愛とは何事だと、こっぴどく説教された。挙げ句の果てに、こんな会社辞めてやりますと、勢いで辞表を書いてしまった。会社の正面玄関を出ようとした時、僕は真梨に呼び止められた。

「もう電話は掛けて来ないでね。」

 それ以来、真梨の部屋には電話をしなかった。電話する暇もなかったし、電話する暇も作りたくなかった。

 ある夕方のこと。その日はものすごい夕立で、傘も持たずにお得意さんのところを回ってきて、事務所に帰りついた途端、急に立ち眩みがした。これは完全に寝不足だと、30分間だけ事務所のソファーで寝かせてもらうことにした。ふと目が覚めると、僕は病院のベッドで寝ていた。ふと見回すと、時計が40分進んでいる事に気がついた。30分眠るつもりが、40分寝ていたわけだ。これは大変と、すぐさま起きて仕事しようと上半身をベッドからおこした途端、まためまいがした。

「花山さん、無茶ですよ。絶対安静だって言われてるんですから。」

 ふと視線を左に持って行くと、看護婦さんが立っていた。しかし、どこかで見たような顔つき。僕は、名札に視線を移した。

「川越・・・もしかして、真梨ちゃん?」

「え? もしかして、花山さんって・・・ああ。」

「覚えてくれてたの? 嬉しいなぁ。でも、まさか真梨ちゃん・・・。」

「・・・の妹の、真美ですよ。」

「え、ああ真美ちゃんかぁ。そう言えば真美ちゃん、夜勤がある仕事してるって聞いたような気がするけど、看護婦さんだったのかぁ。」

 そう。この姉妹と言うのが、実はそっくりだったりする。さすがに双子じゃないから良くみればわかるんだけど、ぱっと見ただけではわからない時がままあった。そもそも、妹が留守がち、それも昼・夜を問わず仕事で留守にするのをいいことに、真梨は自分のマンションをラブホテル代わりにしてた。それでもスケジュールが合わない時というのはあって、妹と鉢合わせになる場合もある。日勤の時は諦めてたけど、休みの日は真梨が小遣いを渡して、しばらく遊びに行かせていた。

「そう言えば、あのマンションってまだ住んでるの?」

「うん。・・・と言っても、私一人で住んでるんですけどね。」

「一人で?」

「姉は、結婚して出て行きましたから。」

「へぇ・・・」

 真梨が結婚したと聞いて、ショックだったようなほっとしたような、よくわからない気分になった。

「話は変わるけど、僕の症状はどうなのかなぁ。」

「うーん、1週間は安静ですね。昨日高熱出して、担ぎ込まれたばっかりですからねぇ。」

「昨日?」

 枕もとの時計のカレンダーを見て、僕ははっとした。僕が眠っていた時間は40分ではなく、24時間と40分だった。

「まあ、仕事があるのはわかりますけど、身体あっての仕事ですからね。何10年のうちの1週間ぐらい、じっとしてても罰は当たりませんよ。あ、それから事務員さんからもそう言われてますよ。私に任せてゆっくり休んでくださいって。」

 僕は、今度は安心して眠りに就いた。あれからまた1日眠ってしまったのか。目が覚めたら、今度は私服姿の看護婦さんが座っていた。回りを見渡すと、身の回りの物が急に揃っている。枕もとには花瓶に花が生けてあって、シャツからパジャマから、新聞・雑誌のたぐいまで置いてある。

「だって、花山さん独り者でしょ? その証拠に、花山さんが倒れたと言うのに事務員さん以外誰も来なかったですよ。」

「うん。でも、なんでまた真美ちゃんが?」

 看護婦さんが、にっこりと笑ってこう言った。

「姉が姉なら、妹も妹ですよ。」

 窓の外を眺めると、雨上がりの虹がきれいだった。