いつかきっと


 ふうっ、寒い。エアコンのタイマーが切れたら、寒くて眠れたもんじゃない。本当はエアコンの暖房を掛けっぱなしで眠りたいけど、そんなことしたら電気代がいくらあっても足りないもん。その分布団の方を分厚くしたら済む話なんだけど、そうすると今度は掛け布団が重たくて眠れない。

 2月の頭ぐらいまで、後期の試験があった。この時はこの時で、目の下に隈を作りながら勉強してた。当然、寝る暇も惜しんでたし、バイトなんてもってのほか。試験が終わったら終わったで、もともと寝てなかった分、何もしなくても眠れた。それが、1週間ぐらい経ったらこの有り様。バイトしてない分財布も薄いし、誰かがそばにいるわけでもないから、なおのこと寒さが身にしみる。

 去年の4月、大学へ進学と同時に、私は東京で一人暮らしを始めた。高校生だった頃の私と言うのは、黒ぶちの眼鏡をかけて高校の図書館で一日中文庫本を読んでいるのがお似合いだったと自分でも思う。それぐらい苦労してでも大学に行きたかったし、都会では塾とか予備校とか言う物があると言う話を聞かされていたから、そんな子と競争しようと思ったらこれぐらいの勉強量はこなさないと負けると思ってた。私はどちらかと言うと現代文が好きだったから、いつも暇を見つけては図書館に行って、手当たりしだいに純文学を読んでた。こうすると暇潰しにもなるから一石二鳥だった。

 東京へ出て、その華やかさと情報の多さに、私の心は揺れた。高校時代までの常識では通用しない学園生活。真面目さよりもしたたかさが重視される学園生活。テレビのチャンネルの数も多いし、FM放送は24時間流れてる。町へと一歩踏み出すと、およそ今日は祭でもやってるんじゃないかと思うぐらいの人の多さ。心が揺れたと言うよりは、高校時代までの常識が通用しないこの町で、一人だけぽつんと取り残されたような心持ちがした。

 とりわけ、恋の方面に関しては、完全に取り残されていた。自宅通学してる子なんかは、最初から彼氏がいる場合が多かった。それに、どこへ遊びに行けば男の子が集まってるか知ってるから、男の子で不自由してるという話はあまり聞かなかった。じゃあ、はるばる東京へ出てきた下宿組はどうかと言うと、これがいくつかのタイプに別れた。まず、自宅通学組と一緒に遊んでいるうち、遊び方を覚えて行ったタイプ。次に、クラブやサークルで彼氏を見つけて、彼氏にあっちこっち連れて行ってもらうタイプ。最後に残った私みたいなのが、完全に取り残されて男っ気のないタイプと言うことになる。クラスが一緒だったから仲良くなったパターンもありそうな気がするけど、うちみたいな文学部では男の子が元々少なくて、競争率も激しそうだから最初から手を出さないらしい。少なくとも、私の目の届く範囲内では平穏を保っていた。そんな訳で、こんな都会のど真ん中には何の基盤もなかった下宿組。最初の頃は手を取り合って、困った時には励まし合いながら頑張ろうよみたいなことを言ってた。それが、「私にも彼氏ができたの」みたいな話があっちこっちで上がって、気がついたら私の他に一人なんて具合になっていた。その一人と言うのが本当に黒ぶちの眼鏡をかけていて、どう見ても男っ気がありそうになく、いつも隅の方の席に座って黙々とノートを取ってたから、本当にいるのかいないのかわかんない子だった。私も大概取り残されてるけど、少なくともあれよりはましだと思っている。もっとも、これは男の子にもあてはまるみたいで、どう見ても彼女のいない売れ残りみたいなのもいたりする。一見するとこれだけ女の子がいるんだからどんな顔しててももてそうに見えるんだけど、女の子自体がクラスの中から彼氏を調達しようなんてことを考えていないから、かえってもてないのかもしれない。

 暇でしょうがないけど、実家に帰る気にもなれないから、私はちょっとした雑貨屋さんのような百貨店をぶらぶらしていた。部屋に鏡を飾ってみようかなと、私の身長より上の方に飾ってある鏡の品定めをしていたら、私のすぐ後ろを見覚えのある顔が通過していくのが写った。ふと振り向くと、偶然と言うか何と言うか、その見覚えのある顔の主と視線が合った。その主と言うのが、うちのクラスの坂井君だった。

「あれっ、なんでこんなところに坂井君がいるの?」

 びっくりしたのは、何も偶然のいたずらのせいだけじゃなかった。この坂井君、うちのクラスの中でも女の子とは縁が無いなんて言葉じゃ足りないぐらいに取り残された男の子だったから。色白で、牛乳瓶のような眼鏡をかけてて、髪の毛はいつもぼさぼさ。しかも、およそ無趣味なんだから。恋愛の対象から外れてると言うよりは、完全に忘れられている、いや忘れる以前に覚えようもない男の子だったのだ。その坂井君が、いつものジャージ姿を脱ぎ捨てて、ごく普通の男の子って感じの格好をして、こう言う洒落たところにいるんだから。

「なんでって、俺だってこういうとこぐらいうろうろするよ。」

 坂井君は、失礼なと言わんばかりにこう言った。

「ああ、びっくりした。だって、坂井君真横に立ってるんだもん。それに、こんなところで逢うなんて。」」

 どうやら坂井君は、下の方においてあったコップを見たかったらしい。

「俺だって、びっくりしたよ。まさか小嶋さんがこんなところまで出歩く趣味があったとは思わなかったよ。」

 坂井君は坂井君で、私は完全に無趣味で男っ気のない子だと思っていたらしい。それがまた否定できないところが悔しいんだけど。それはともかく、この偶然にもう一つ偶然が重なった。私のお腹の虫が、くうと鳴った。時計を見たら、もう午後1時を回ってる。坂井君は、げらげら笑いながらこう言った。

「びっくりついでに、ちょっとだけ寄って行こうよ。」

 ちょうどお腹もすいてたし、あわよくば坂井君がご馳走してくれるかもしれないと、期待してたら行き先は何の変哲もないハンバーガーショップ。「坂井君はやっぱり坂井君だな」なんて思った。二人一緒に注文したら、どっちも400円セット。私は照れ臭そうに苦笑いしてた。

「どうしたの?」

「どうしたのって?」

「だって、下を向いて食べてるけど。」

「えへへ・・・」

 実は私、必死で照れを隠していたのだった。何を隠そう、男の子と食事をするのはこれが生まれて初めてだった。もともと田舎の出身だから、ハンバーガーショップなんてないし。それ以前に、食べるところなんて何もなかったから。もしあったとしても、彼氏がいたこと自体もなかったから、やっぱりこう言う経験もなかったはず。「笑わないでね」と予め断っておいてから、私はこう言った。

「実はね。男の子と食事するのって初めてなんだぁ。」

「えっ、まさかぁ。」

 坂井君、笑いはしなかった。でも、相当びっくりしてた。

「だってぇ、ハンバーガーショップは愚か、コンビニすらなかったんだよ。」

「へぇ・・・、ちょっと想像つかないけど、もしかして彼氏と二人で畑のスイカを盗んで食べたとか。」

「やだ、そこまでひどくないよぉ。」

 確かに、高校時代にもし私に彼氏がいたら、一体どこをデートコースにしてたのか、私でさえも見当がつかなかった。

「じゃあ、初めて男の子と二人っきりで食べるハンバーガーって、どんな味?」

「味が良くわかんないよぉ、緊張して。」

 こんなことを言って、二人で笑ってた。笑っている内に、色白で、牛乳瓶のような眼鏡をかけてて、髪の毛はいつもぼさぼさで、およそ無趣味な坂井君は、私が勝手に頭の中に描いた坂井君だったのかもしれないなと思った。だって、横断歩道を渡りながら、心の中では何度も好きだって言っても、人ごみにかき消されて声にならなかったし。初めてのことだらけで、自分で何をやってるかよくわかってないし。挙げ句の果てに、別れ際に自分の電話番号を教えるのが精一杯だったし。今日は一体何をやってたんだろうと、アパートに帰ってきてから自己嫌悪に陥っていた。そこへ、坂井君から電話がかかってきた。なんでまたと思ってたら、坂井君はこう言った。

「だって、電話番号教えてもらったんだから、ちゃんと電話しないと失礼じゃない。」

 じゃあ、来週の日曜日に逢おうよってことになって、電話を切った。

 その次の日曜日、私はできる限りのおめかしをして、坂井君を待っていた。ほとんど待っていないはずなのに、一日中待っていたような錯覚に陥った。坂井君は、ロングコートに茶色いズボンを穿いていた。これは成り行きでそうなったと思うんだけど、適当に喫茶店に入って、何やら話をしていた。何を話していたかは覚えてないし、覚える余裕すらなかった。本当に言いたかった事が、なかなか言い出せないまま、歯痒い思いだけを抱いていたんだから。

 ついに、私も東京タワーのてっぺんから飛び降りるような気持ちで、こう聞いてみた。

「ねぇ、坂井君って彼女いるの?」

 実は私、さっきからこの一言が言い出せなくていたんだから。

「実はね・・・いるよ。」

 坂井君の話では、例の彼女と言うのが、あの黒ぶちの眼鏡をかけていて、どう見ても男っ気がありそうになく、いつも隅の方の席に座って黙々とノートを取ってたから、本当にいるのかいないのかわかんない子だった。私は、東京タワーのてっぺんから急に引きずりおろされたような気分になった。

「どうしたの? 急にうかない顔をして。」

「ううん、いいの。忘れて。でも、たまには電話してもいいよね?」

 こうして、初めての恋らしき物は、あっけなく終わってしまった。アパートに帰った後、せつない気持ちで大泣きした。大泣きしたまま眠ってしまったらしく、枕カバーがぐっしょりと濡れていた。

「私もそろそろ彼氏が欲しいわ。」

 実家に電話する度、私はいつもこんなことを言っている。そのうちできるよと、胸の中では言い聞かせているけど。