Believe


 京都の高校には、毎年春になったら春討があった。と言っても、別に先生やらPTAやらを相手に、学校環境の改善を訴えるわけじゃない。まして、賃上げ交渉をして、まとまらなかったらストライキならぬ授業のボイコットをするわけでもない。春討って言うのは、春季討論集会の略で、京都にある高校の生徒が色々な問題に対して討論を繰り広げるという物だ。うちの高校でも、授業を1時間つぶして、生徒会の抱える問題とか、校則の抱える問題とか、男女交際の問題とか、もうちょっと重たいテーマになると、同和地区が抱える問題とか、要はあるテーマごとに話し合う分科会って物で話し合って、それを議長がまとめて学校全体で話し合うという物だ。もっとも、私から言わせればこんなのはちっとも楽しくなくて、本当に楽しいのは、あちこちの高校の代表が集まって行う春討だった。これの参加資格と言うのが、京都の高校に通っている高校生で、各高校の生徒会が取りまとめて参加者を募るという物だった。ちなみに、うちの高校は各クラス2名ずつ割り当てられていて、どうしても参加者が決まらなかったらくじ引きでも何でもして決めるんだけど、ほとんどの子が半ば強制的に参加させられるという物だった。ちなみに私は高校1年の時に生徒会執行部の役員だったから、各クラスの割り当てとは別に参加が義務づけられていた。正直言って、私も涙々の嫌々参加だった。それが、いざ参加してみると、面白いんですね、これが。討論ってこんなにも面白い物かって。だって、自分が言いたい事が、何の束縛もなく言えるんだもん。こんな経験、社会人になってもできない。むしろ大学へ行ったり社会人になったりしたら、半体制的なことを言うと「そこまで言うなら自分でやってみろ」みたいなことを言われて、言いたい事の半分も言えなくて、ここまで言うなって言われるかもしれないけど体制的な意見の確認作業に終わって時間が無駄なだけの会議で終わってしまう会議がほとんどだもん。

 そして、何よりも面白いのが、他の高校の話が聞ける事。私が卒業した高校は、自由な雰囲気のある高校だった。それを基準にするから、例えば一般的な視野で行けばうちの高校の校則と言うのはあってないような物だったけど、この「あってないような物」を基準にするから、他の高校の校則の話を聞くと、なんとまあ不自由な環境に育っているんだと思った。他にも、とある女子校の高校生で、すっごくしっかりしてて、きっと真面目一本なんだろうと思ったら、一番最後に落語を聞かせてくれて、一気にイメージが変わったなんてのもあった。他にも、文芸部の男の子が、こんな事を言っていた。例えば、恋愛小説を書く時。それも、失恋物を書く時。確かに失恋ってどんな言葉でも置き換えられないぐらい苦しくてしょうがないし、その失恋って言う残酷な経験をきっかけに時が止まっちゃって、自分は悪くなかったんだよと言い訳ばっかりする人生が始まっちゃう。でも、苦しくて苦しくてしょうがなくて、もう何かに書き留めて誰かに読ませないと気が済まない話だったら、最初っから書かないのだそうだ。それはなぜって聞いたら、だってそんなの読んだってちっとも面白くないでしょって言われた。失恋という名の蟻地獄からはいあがった後で、これなら笑って話せるって思った段階で、初めて面白い失恋物が書けるんだって言ってた。

 最後の仕上げは、みんなで輪になってフォークダンスを踊ったり、「乾杯」の大合唱で終わり。半ば強制的に連れられた子も、終わってみれば来年も行ってみたいと言うことになる。正直に言って私も行きたくてしょうがなかったんだけど、高校2・3年と、クラブの全国大会が重なって参加できなかった。ま、参加したかった究極の理由と言うのが、某女子校の子で、体育館でやった一番最後の大合唱の時に舞台に立ってて、すんごく可愛くて来年も逢いたいなって思ってたから。その感情の雰囲気に圧倒されてたし、名前も聞けなかったんだけど、今頃はどうしてるんだろうと思う。今もし町ですれ違っても、絶対に気付かないけど。

 あの当時でさえ、この春討を縮小しようかって言う動きがあった。これは、教育委員会の圧力もあったし、この楽しさを知らない一般の生徒も「やりたくない」って言う意見もあった。で、この両者の思惑がたまたま一致して、縮小しようかって言う動きがあった。ひょっとしたら、今ではこんなことやってないかもしれない。あの当時、大人達は高校生達のことを「無気力・無関心・無感動」なんて呼んでた。それが10年ほど経って、やれ「ブルセラ」だ、やれ「コギャル」だとうるさい。こんなものは、今の大人達が臭い物にふたをし続けて来た結果だと思ってる。もっとも、今の大人達が若い頃、ビートルズやワイルドワンズに熱中してみたり、学園紛争で走り回ったりと、その当時の大人達からはきっといい目で見られなかったかもしれないとは思うけど。

 私いわく、高校生と言うのはいつの頃も時代の最先端をかぎまわっている物だと思う。だから、せめて自由に生きて欲しい。それがもし挫折で終わったり、失恋で終わったりしたとしても、思い出には違いないのだから。