「いやあ、中田君、婚約したんだって?」
教頭が懲戒免職になり、棚からぼた餅方式で学年主任になった稲垣先生は、朝出勤してきた中田先生の顔を見るなりこう言った。
「聞きましたよ、中田先生。ついに年貢の納め時ですね。」
同じく、棚からぼた餅方式で教頭になった内海先生は、こう言った。
「ちょっと待って下さいよ、内海先生。何なんですか、年貢の納め時って。」
中田先生は、不機嫌な顔をした。
「ナカもわかってへんなぁ。これはぁ、内海先生の餞の言葉やって。」
嵐山先生は、中田先生の肩をたたいた。
「あ、さては・・・。お前、あんだけ黙ってろって言ったろ?」
中田先生は、かんかんに怒った。
「ええやないか。どうせばれるんやから。」
嵐山先生は、むしろ開き直った感じでこう言った。
「ばれるぐらいだったら、最初から公認の仲になった方がいいですもんね。」
棚からぼた餅と言うよりは、風が吹いたら桶屋が儲かる方式で三年二組の担任になった、紀子先生がこう言った。
「それにしても、あの時はどうなるかと思ったんですけどね。」
竹本先生は、思い出すように言った。
そう。あれは嵐山先生と中田先生が辞表を提出した後のことだった。先生を辞めた後のことについて、ああだこうだと嵐山先生と中田先生が喋っていた。そこを、ふと中田先生が立ち止まった。嵐山先生も、立ち止まった。目の前には、真智子先生が呆然と立っていた。
「先生、辞めちゃうんでしょ?」
真智子先生は、半分涙声でこう言った。中田先生と嵐山先生は、黙ったままじっと立っていた。
「先生、辞めないで!」
真智子先生は、こう叫んだかと思うと、泣きじゃくりながら中田先生にぎゅっと抱きついた。嵐山先生と中田先生は、しばし呆然と立っていた。嵐山先生は、中田先生がどうするか様子を見た。中田先生は、真智子先生をそっと抱きしめた。真智子先生は、それでもまだ泣きじゃくっていた。中田先生は、泣くのはおよしと、真智子先生の背中をそっとさすった。
「お取り込み中失礼しますが・・・。」
嵐山先生と中田先生の背後から、ピンとした声が上がった。中田先生は、真智子先生の両肩を抱いて、すっと立たせた。そして、嵐山先生と中田先生は、後ろを向いた。声の主は、内海先生だった。内海先生は、一回だけ咳払いをした。
「最初に言っておくが、これは私の本意ではない。本意ではないんですが、これは私が預からせていただきます。」
内海先生の右手には、校長の席に置いたはずの白い封筒があった。
「どういう意味ですか、内海先生!」
嵐山先生と中田先生は、内海先生に詰め寄った。
「黙らっしゃい!」
内海先生は、大声を上げた。
「言わせてもらえば私だってね、これ幸いと思ったんですよ。あんた達が辞めてくれたら、私どれだけ浮かばれたことか!」
内海先生はこう言って、嵐山先生と中田先生に詰め寄った。
「だったら、なんでわしらの辞表がそこにあるんですか!」
嵐山先生は、ついに大声を上げた。
「しょうがないでしょうが。校長からの命令なんですから。すなわち、校長はこの辞表を受理しなかったと。」
内海先生は、封筒を振りかざしてこう言った。
「ついでと言っては何なんですけどね。」
内海先生の横には、いつの間にか紀子先生が立っていた。
「紀子先生!?」
嵐山先生と中田先生は、驚いてこう言った。
「最初に言っておきますけど、これも私の本心じゃないんですよ。」
紀子先生は、こう前置きして話を続けた。
「嵐山先生と中田先生を辞めさせるなって言う署名が、生徒達からこれだけ集まったんですよ。あたしいよいよ若い子達の気持ちがわかんなくなりましたよ。」
紀子先生はそう言って、
「嵐山先生と中田先生を学校に残す会」
と大きく書かれた冊子をかざした。
「いやあ、残念だなぁ・・・」
どこからともなく現れた寺田先生が、内海先生の手元の白い封筒を取り上げ、真っ二つに破った。
「惜しい人をなくすとこでしたねぇ。」
これまたどこからともなく現れた竹本先生が、全然惜しくなさそうに、こう言った。
「お前らちょっと待て! わしらをおちょくっとんのか!」
嵐山先生がこう叫ぶと、集まった先生方が校庭に向かって逃げ出した。嵐山先生と中田先生は、大声を叫びながら時間を忘れて、校庭中を追い回した。
結局、嵐山先生と中田先生は、元の職場に復帰したのだ。しかも、あの鍋会以降、紀子先生が中心になって動いた、中田先生と真智子先生をくっつける作戦も、見事に大成功。二人は婚約までこぎ着けた。
「さて、ここで先生方に問題です。なぜ中田先生と真智子先生は婚約したんでしょう。一番、真智子先生のおなかに赤ちゃんができた。さて、何番でしょう?」
嵐山先生は、こう言った。
「お前、ちょっと待て。それは聞き捨てならんぞ!」
中田先生は、立ち上がった。三学年担任の先生方にはいつの間にかプラカードが配られていて、全員が一番のプラカードをあげた。
「ナカ、これまで真智子先生と、何にもなかったとは言わせんぞ。」
嵐山先生は、開き直ってこう言った。
「そそ、確か真智子先生はもうちょっとで産休だって聞いたんですけどね。」
竹本先生も、嵐山先生に同調するかのようにこう言った。
「竹本先生!」
中田先生がこう叫んだ瞬間、職員室の扉ががらりと開いた。真智子先生の出勤だ。職員室内は、急激に静けさを取り戻した。
「あら、みんなどうしたんですか?」
事情を知らない真智子先生は、不思議そうな顔をして席に着いた。そこへベルが鳴り、先生方が教室へ向かった。この時間、嵐山先生と中田先生はそれぞれの教室へと、真智子先生は空き時間なので職員室に残っていた。
「アラシ、頼むから内緒にしてって言ったじゃない。」
中田先生は、不機嫌な声を上げた。
「なんでやねん。どうせばれるやろ?」
嵐山先生は、こう言った。
「だからあ、ばれるまでそっとして欲しかったのよ、僕ちゃんとしては。」
中田先生は、こう言った。
「ははーん、さてはばれるまでの間、何か悪さしようと思うてたやろ?」
嵐山先生は、中田先生の図星を付いた。
「いや、全国の中田先生ファンに申し訳ないもん。」
中田先生は、白々しくこう言った。
「よくもまあそう言うことが恥ずかしげもなく言えるな。」
嵐山先生は、あきれてものが言えないとばかりにこう言った。
この時間、中田先生は三年一組で教えることになっていた。教壇に立ち、号令の後大声を上げた。
「はい、今日は約束通り単語テストをやるからな。教科書とノートはしまえ!」
教室からは、えーっと言う声があがった。中田先生は、全員が教科書とノートをしまった後、問題を配った。
「それじゃあ始め!」
実はこの単語テスト。ある仕掛けがしてあった。山口さんの問題だけ手書きで、
「今晩暇だったら遊びに行かない? 放課後公園で待ってるから。」
と書いてあったのだ。中田先生は、何食わぬ顔で教室内をうろうろした。そして、教壇に戻ったとき、山口さんが教壇の方を向いてにっこりと笑った。やがて、問題が集められた。中田先生は、山口さんの答案用紙をちらりと見た。手書きの下には、
「いいよ」
と書いてあって、ついでにピンクのポイントペンでハートマークまで書いてあった。
「それじゃあ、授業を始める。」
中田先生は、何食わぬ顔で授業を始めた。やがて放課後になり、中田先生はいそいそと職員室を後にしようとした。
「ナカ、どないしたん? えらい早いやんか。」
嵐山先生は、不審に思ってこう聞いた。
「いいじゃない。たまには早く帰っても。」
中田先生は、こう言ってさっさと職員室を後にした。
「何か変やなぁ。」
嵐山先生は、中田先生の机の引き出しを開けた。中には、さっきの単語テストの答案用紙が入っていて、その中に山口さんの答案用紙も入っていた。
「ナカの奴、こういう手を使ってたか? 許さん!」
嵐山先生は、車に飛び乗って、公園へと先回りした。それを知らない中田先生は、いそいそと公園へと歩いていた。
中田先生が公園に着く頃、山口さんはすでに公園に着いていて、ブランコの上に腰掛けていた。
「中田先生!」
山口さんが手を振った。
「ずいぶん早かったね。」
中田先生は、山口さんの隣のブランコに腰掛けた。
「だって、先生遅いんだもん。」
山口さんは、こう言った。
「ごめんごめん。取りあえず、カラオケにでも行くか?」
中田先生は、山口さんの肩に手を掛けた。
「うれしいっ!」
山口さんがブランコから立ち上がったところで、嵐山先生がわざとらしく登場した。
「俺もご一緒させて下さいな。」
嵐山先生は、二人の顔を見るなりこう言った。
「アラシ、お前何でこんなとこに居るんだよ!」
中田先生は、不機嫌な声をあげた。
「中田先生、その言葉そっくりそのまんま返してあげるよ。何でこんなとこにいるのかな?」
嵐山先生は、逆に聞き返した。
「いや、だからあ、英語教えてあげようかなってそう言うことなの。」
中田先生は、こう言い訳をした。
「へぇ、わざわざ英語教えにカラオケに行くわけ?」
嵐山先生は、とぼけたようにこう言った。
「だからあ、昔っからよく言うじゃないの。よく学び、よく遊べって。嵐山先生もそう思うでしょ?」
中田先生は、きっぱりと言い切った。
「そりゃあ確かにそうでしょうよ。でも、これは行き過ぎじゃございません?」
嵐山先生は、さっきの答案を中田先生に見せた。中田先生は、血相を変えた。
「あらやだ。嵐山先生も人が悪いね。だめだよ、人の引き出し勝手に開けちゃ!」
中田先生は、しばし黙っていた。
「まあな。わしもお前の手口がようわかったわ。んじゃあ。」
嵐山先生は、軽く手を挙げてその場を去った。
「あいつ結局何しに来たんだ。」
中田先生は、そうつぶやいた。
翌日、嵐山先生が三年一組で確率統計を教えることになっていた。号令の後、嵐山先生は、いつになく張り切った声でこう言った。
「じゃ、抜き打ちテストやるしな。教科書とノートしまえ!」
教室内からは、不平と非難の声があがった。
「じゃがましい!」
教室内は、急に静かになった。
嵐山先生は、全員が教科書とノートをしまったのを確認して、答案用紙を配った。この答案用紙には、細工がしてあった。小島さんの答案用紙にだけ、
「今晩暇やったらカラオケでも行かへんか?」
と書いてあった。つまり、昨日中田先生が使ったのと、同じ手口だった。嵐山先生は、何食わぬ顔で教室内を見回った。小島さんは、特に何の反応もないようだ。やがて、答案用紙が集められた。嵐山先生は、特に答案用紙を確認しなかった。やがて授業が終わり、嵐山先生は職員室へ戻った。
「さて、添削でもするか・・・。」
嵐山先生は、いつになく真面目な態度で机に向かった。中田先生は、不思議そうに眺めていた。そして、小島さんの答案用紙が顔を覗かせた。答案用紙には、鉛筆で大きく×印がつけてあった。嵐山先生は、がっくりした。これを横で見ていた中田先生は、
「ばかだねぇ、お前は。」
と、くすくす笑っていた。
こんな感じで、婚約したらいくら何でも落ち着くだろうと思われていた中田先生は、相変わらずだった。
一方、中田先生も真智子先生も、婚約したことは生徒には内緒にしていた。それが、どこから漏れたのか、一部の生徒は知っていた。もちろん、表向きは知らないふりをしていた。しかし、生徒達の間にも中田先生ファンと真智子先生ファンがいて、その動きがにわかに活発になった。
ある日の夕方、中田先生ファンの女の子と、真智子先生ファンの男の子が、一同に集結した。二人を引き離す作戦を考えるためだ。
「中田先生と和田先生、結婚するらしいね。」
ある男の子が、こう言った。
「だからぁ、こうやって集まってんじゃない!」
ある女の子が、こう言った。
「でもなぁ、引き離すったって、どうやって引き離すんだよ。」
別の男の子が、こう言った。
「それを考えるために集まってんだろ!」
また別の男の子が、こう言った。
「うーん。」
場内は、また静けさを取り戻した。
「襲っちゃえば?」
ある女の子が、沈黙を破った。
「和田先生を? それはまずいでしょう。」
ある男の子が、こう言った。
「ばーか、中田先生の方に決まってるでしょ?」
さっきの女の子が、こう言った。
「そうだな。俺どうせ襲うんだったら、和田先生よりも斉木先生を取るな。」
別の男の子が、こう言った。恐らくこれは、ここに集まっている男子生徒全員の、正直な気持ちなのかも知れない。
「なんかいい方法ないかなぁ・・・。」
ある女の子が、こうつぶやいた。
「ひょっとしたら、やくざだったら何か持ってんじゃない、中田先生の弱点。」
ある男の子の一言で、まずは嵐山先生に知恵を伝授してもらうこととなった。
次の日、授業を終えた嵐山先生が、職員室へと帰る途中だった。
「嵐山先生!」
とある男の子が、嵐山先生を呼び止めた。
「なんや?」
嵐山先生が振り向いた。
「ちょっと相談があるんですよ。」
もう一人別の男の子が、嵐山先生にこう言った。
「相談ってなんや?」
嵐山先生は、顔色も変えずにこう聞いた。
「いや、ここじゃちょっとあれなんで、今日の放課後に時間ありますか?」
嵐山先生に声を掛けた方の男の子が、こう言った。
「ははーん、さては君達恋の悩みかな?」
嵐山先生は、すごく嬉しそうにこう言った。
「まあ、そんなとこかな。」
嵐山先生に声を掛けた方の男の子が、こう言った。
「とにかく、放課後この教室に来てよ。」
もう一人の方の男の子が、こう言った。
「わかった。ほしたら放課後時間空けとくで。」
嵐山先生は、こう言って職員室に戻った。
職員室に戻った嵐山先生は、やけに張り切っていた。
「嵐山先生、どうしたんですか?」
紀子先生は、様子がおかしい嵐山先生にこう聞いた。嵐山先生は、どうだっと言わんばかりに、自分の席にどかんと座った。
「いやあ、僕ちゃんも生徒から頼られてたんですよねぇ!」
嵐山先生は、話の続きを聞きたいだろ、と言わんばかりにこう言った。
「なんですか、それは?」
竹本先生は、不思議そうにこう聞いた。
「恋の悩みだって、一応男だけどね。」
嵐山先生は、すごく嬉しそうにこう言った。
「相談する相手を間違えてんじゃない?」
中田先生は、不思議そうにこう言った。
「そらどう言う意味やねん!」
嵐山先生は、急に大声を上げた。
「そうですね。客観的な意見として、対女の子でずるい方法を考えろってことだったら、中田先生に相談した方がいいんじゃないかな。」
紀子先生は、こう言った。
「それはほめてるんですか、けなしてるんですか?」
中田先生は、立ち上がって大声を上げた。
「好きなように取ったら?」
紀子先生は、こう言った。
「まま、取りあえず、僕ちゃん忙しいから。」
嵐山先生は、また嬉しそうな顔に戻った。
そしてその日の放課後、嵐山先生は例の教室に入った。入るなり、男の子やら女の子やらが、所狭しと座っていた。そして、黒板には、
「中田先生と和田先生、被害者の会」
と書いてあった。
「なんやねん、これ。中田先生の被害者で女の子がようさん集まってるんやったらわかるけど、なんで真・・・いや和田先生が出てくんねん?」
嵐山先生は、黒板を見るなり不思議そうな顔をした。
「だから、ここに集まってるのは、中田先生ファンの女の子と、和田先生ファンの男の子ばっかりなんですよ。」
議長役の女の子が、嵐山先生にこう言った。
「今日はゲストに嵐山先生を迎えて、いかにしてこの二人を引き離すかを検討したいと思います。」
議長役の女の子がこう言った瞬間、場内にはわーっと言う歓声が上がった。
「なんや、そう言うことか。」
嵐山先生は、こうつぶやいた。
「それでは、まず嵐山先生から一言お願いします。」
議長役の女の子が、こう言った。場内は、急に静かになった。嵐山先生は、しばし考えた。
「わしの率直な意見を言おう。この考えには反対やな。」
嵐山先生がこう言った途端に、場内からは一斉に
「えーーーっ!」
と言う声が上がった。
「まあ聞け。確かに、お前らの気持ちも分かる。そやけど、された方の気持ちを考えてみい。わしやったらようやらんで。」
嵐山先生が、こう言った。場内からは、不平と非難の声が上がった。
「もし仮に、ここで作戦が成功してな。二人が別れたとせえよ。ほしたら、このメンバーの中で争奪戦が起こるねんで。」
嵐山先生は、こう言った。場内は、急にしんとした。
「ほんで、もしこの中の誰かとくっついたとせえよ。ま、それ以外の奴とでもかまへんわ。ほしたら、お前らはまたこんな集まりやるんか?」
嵐山先生は、こう言った。場内の参加者は、黙ったままだった。
「どっちにしても、好きおうてるもん同士は、周りから無理に引き離さんことや。お前らもあほなことせんと、もうちょっと大人になれよ。それだけはゆうとくわ。」
嵐山先生はこう言って、教室を出ていった。
「ちぇっ、嵐山先生だったらわかってくれると思ったんだけどなぁ・・・。」
参加していた男の子の一人が、がっくりしたようにこう言った。
嵐山先生の帰りがけ、中田先生が歩いているのを見かけた。嵐山先生は、クラクションを鳴らした。中田先生が振り向いて、立ち止まった。嵐山先生は、中田先生のすぐ脇に車を止めた。
「どうしたんだ、アラシ。」
中田先生は、車に乗り込むなりこう言った。
「ナカ、お前気をつけろよ!」
嵐山先生は、車を発車させるなりこう言った。
「なにが?」
中田先生は、こう聞いた。
「お前と真智子先生が結婚する話、もう生徒の間でばれとるで。」
嵐山先生はこう前置きして、さっきの被害者の会の話をした。中田先生は、腕組みをしたまま黙っていた。
「一応あほなことすんなって言い聞かせてはきたけど、あらわからんで。」
嵐山先生は、こう締めくくった。
「そうか。」
中田先生は、こうつぶやいた。そこへ、女子高生が乗った自転車が三台、急に飛び出してきた。嵐山先生は、とっさに急ブレーキを掛けた。そして、自転車は何事もなかったかのように走り去っていった。
「危ないやっちゃな! どこ見て運転してんねん!」
嵐山先生は、大声をあげた。
「スカートが短いから、許す。」
中田先生は、自転車の後ろから見える太股あたりを眺めていた。
「こんなんが高校で教師やってんねんから、ぞっとするわ!」
嵐山先生は、中田先生を指差した。
あれから、一応平静さを取り戻した。例の被害者の会が活動した形跡はなかったし、中田先生もようやく落ち着いたようだ。やがて、半袖では肌寒くなる季節がやってきた。しかし、相変わらず婚約発表はなかった。
この日、嵐山先生と竹本先生が隣同士のクラスで授業をすることになっていた。そして、例の被害者の会での一件が、話の中心になっていた。
「それにしても、うまく逃げましたね。」
竹本先生は、渡り廊下でこう言った。
「いや、別に逃げたつもりはないんですよ。」
嵐山先生は、こう言った。
「でも、わかってるんですよ。先生がなぜ反対したか。」
竹本先生は、こう言った。
「どう言う意味ですか?」
嵐山先生は、こう言った。
「紀子先生ファンの嵐山先生としては、ここでもし中田先生が婚約破棄なんてことになったらピンチですもんね。」
竹本先生は、こう言った。
「そんなんじゃないですよ。」
嵐山先生は、ちょっと怒ったような声をあげた。
「もっとも、私がもしあの会に呼ばれてたとしても、同じことを言ったでしょうけどね。」 竹本先生はこう言って、教室に入っていった。
またある日の昼下がりのこと、中田先生が授業を終えて、三年一組の教室の前を通った。
「中田先生っ!」
中田先生を手招きしたのは、三年一組の富田さんだった。この子もちっちゃくて、しかもくりっとした瞳。結構かわいらしい女の子だった。
「富田、どうした?」
中田先生は、こう言った。
「先生、ちょっとちょっと・・・。」
富田さんは、中田先生を手招きした。中田先生は、言われるままに階段を降りて、着いたのは人気の少ない階段下の通用口だった。
「先生、相談があるの。」
富田さんは、いつになく深刻な顔をした。
「相談って?」
中田先生は、何気なくこう聞いた。ふと見ると、富田さんはほっぺたを赤らめていた。
「・・・あたしね。嵐山先生を好きになったみたい。」
富田さんは、言うのを迷ったような素振りを見せて、ようやく口にした。中田先生は、しばし黙っていた。
「そうか。お前熱でもあるんじゃないか?」
中田先生はそう言って、富田さんの額に手を置いた。
「確かに、ちょっと熱いな・・・。」
これは冗談ではなく、本当にちょっと熱かった。富田さんは、ほっぺただけでなく、耳まで真っ赤だった。中田先生は、急に心配になった。
「その件は別にして、取りあえず保健室へ行こう。」
中田先生は、富田さんの背中をぽんぽんと叩いて、保健室へと行った。富田さんの体温が、中田先生にも伝わった。
「あちゃ・・・、今日は保健の先生がいないんだったな。」
保健室に入った中田先生は、こうつぶやいた。中田先生は仕方ないなという顔をして、いくつか並んでいるベッドのうちの一つのカーテンを開けた。
「しばらくの間、ここで寝てろ。たまに様子見に来るから。」
中田先生は、こう言って保健室を出ようとした。
「先生、あたし本当に熱あるんですか?」
富田さんは、中田先生が保健室を出ようとする瞬間、こう言った。
「うん、ちょっと熱いな。」
中田先生は、こう言った。
「ねえ先生、計って!」
富田さんは、未練がましそうにこう言った。
「だって、保健の先生だったら計ってくれるよ。」
「・・・しょうがないな。」
中田先生はそう言って、体温計を探しにかかった。様子が分からないので、あっちの棚を探したり、こっちの引き出しを開けてみたりと、結構時間がかかった。ようやく見つけて、中田先生は富田さんの横に座った。
「はい、これ体温計。」
中田先生は、こう言って体温計を差し出した。
「先生が計ってくれるんじゃないの?」
富田さんは、甘い声を出して、中田先生にすり寄った。
「小学生じゃないんだぞ。」
中田先生は、あきれたようにこう言った。
「やだ、先生計って!」
富田さんは、だだをこね始めた。
「わかった。わかったから、ほらあーんして!」
中田先生は、しょうがないなと言うよりは、恥ずかしそうに体温計を差し出した。
「あたしそうやって計ったことないもん。」
富田さんは、ちょっと不満げに言った。
「脇の下ってか・・・・。」
中田先生は困った顔をして、長袖のセーラー服を眺めていた。
「こう言う時って、セーラー服は不便なんだよな・・・。」
中田先生は、こうつぶやいた。
「ねぇ、早く計ってぇ!」
富田さんは、まただだをこね始めた。
「しょうがないなぁ、もう。」
中田先生は困った挙げ句、富田さんのセーラー服の上半身だけ脱がせにかかることにした。富田さんはベッドの真ん中にごろんと寝っ転がっている格好だから、中田先生は掛け布団を除けて、ベッドに上がらないと脱がせられなかった。そして、中田先生はそうっと富田さんのセーラー服のチャックを開け、上着を上にずらした。そして、白くてかわいらしいブラが顔を覗かせたところで、保健室の扉ががらりと開いた。真智子先生だった。
真智子先生は口に手を当てたまま、しばし呆然と立っていた。そして、泣き出しながら、走り去っていった。
「あ、いや、真智子先生。これは違うんですって!」
中田先生は、真智子先生を追いかけようとした。しかし、富田さんがしっかりと中田先生を抱えていたので、身動きがとれなかった。
実はこれが、被害者の会の作戦だった。表面上、被害者の会は活動していないかのように見えた。水面下では、中田先生ファンの女の子ばっかりが集まって、引き離し作戦が練られていたのだ。
作戦はこうだ。まず、中田先生を呼びだして、保健室に連れていく。予め、保健の先生がいない時間を見計らって、仕掛け人が中田先生とわざといちゃつく。そこを、別の仕掛け人が、
「何か、保健室の中が変なんですよ。」
と言って、真智子先生を呼び出す。そして、中でいちゃついてる中田先生と鉢合わせにする。と言うわけだ。余談ではあるが、中田先生といちゃつく役は、立候補者でいっぱいだったらしい。くじ引きの結果、選ばれたのが富田さんだったというわけだ。
結局、真智子先生のことが気になるものの、富田さんをほったらかす訳には行かず、中田先生はあの後富田さんの体温を計って、一時間看護する羽目になった。
ようやく解放された中田先生は、一目散に職員室に戻った。
「お前、何してんねん!」
かんかんに怒った嵐山先生は、中田先生が戻るなり頭を殴りつけた。
「何してるって、それより真智子先生は?」
中田先生は、一番気にしていることを聞いた。
「泣きながら帰っちゃいましたよ!」
竹本先生は、考えなくてもわかりそうなことを聞くなと言わんばかりにこう言った。
「話は全部、真智子先生から聞いたわ!」
嵐山先生は、怒りながらこう言った。
「最低ですよね、中田先生って。」
紀子先生も、必死に怒りを堪えながら言った。
「だから、それは誤解ですって!」
中田先生は、こう叫んだ。
「同情の余地なしですな。」
内海先生も、こう言った。中田先生は、その場でうなだれた。
「誤解かどうかはともかく、ばちが当たったんですよ。」
竹本先生は、静々とこう言った。
「どっちにしても、処分は今決めてるところだから、覚悟しなさいよ。」
内海先生が、中田先生の肩を叩きながらこう言った。
放課後、富田さんが事情聴取された。職員室の奥の取調室で、嵐山先生と寺田先生が事情を聞いていた。
「ナカ、どんな基準で考えても、お前が悪い!」
嵐山先生は、こう言った。
「そ。まず保健室に誘ったのは、中田先生の方だってねぇ。」
寺田先生は、呆れたように言った。
「で、先生すっごく優しかったんですよって話で始まって・・・。」
嵐山先生は、こう言った。
「挙げ句の果てに、おのろけ話をたっぷりと聞かされましたよ。」
寺田先生は、怒りが爆発する寸前の声をあげた。
「こんなん同情の余地なしじゃ!」
嵐山先生は、ついに怒りが爆発した。
「ちょっと待って下さいよ。どんな話だったか知りませんけど、あれは誤解だって言ってるでしょ!」
中田先生も、大声をあげた。
「見苦しいですぞ、中田先生。」
稲垣先生は、こう言った。
「ほんまや。大体女の子の方が悪いって、ようお前の口から出るな!」
嵐山先生は、大いに怒った。
「取りあえず、この事情聴取を踏まえて、処分を決めますからね。もういいから帰りなさい。」
内海先生は、こう言って中田先生を追い返した。中田先生は、渋々職員室を後にした。
「四面楚歌とは、この事だよな。」
中田先生は、帰り道でそうつぶやいた。
翌日、出勤してきた中田先生は、真っ先にこれを聞いた。
「真智子先生は?」
先生方全員が、呆れた顔をした。
「休むんだって。」
嵐山先生は、最低な奴と言わんばかりにこう言った。
「そ。誰にも会いたくないんだって。」
紀子先生も、言いたくなさそうにこう言った。
「そっか・・・。」
中田先生は、こうつぶやいた。
「処分を発表しよう。富田さんは、停学三日。中田先生は、自宅謹慎十日。だからもう帰りなさい。」
稲垣先生は、遠山の金さんになりきっていた。中田先生は、がっくりと肩を落として荷物をまとめた。
「あーあ、自宅謹慎か・・・。」
帰り道に中田先生は、ぽつんと一言こう言った。坂道を抜けて、長い住宅街を抜けた辺りで、中田先生は、ふと思いついた。
「そう言えば、真智子先生どうしてるんだろ?」
中田先生は、無性に真智子先生の声が聞きたくなった。たまたま、すぐ近くに公衆電話があった。中田先生は、公衆電話に駆け込んだ。
「はい、和田です。しばらくの間、旅行に出かけています。用件のある方は・・・。」
電話の向こうは、留守番電話だった。
「これってもしかして、感傷旅行か・・・。」
中田先生は、こうつぶやいた。
一方、この留守番電話を聞いた人が、もう一人いた。紀子先生だった。
「真智子ちゃん今頃どうしてるんだろう?」
職員室で、紀子先生はふと思った。
「そうだな。中田先生はともかく、真智子先生が心配だな。」
稲垣先生は、こう言った。
「電話したらええんとちゃうの?」
嵐山先生は、こう言った。そこで、紀子先生は、真智子先生の家に電話したのだ。
「あらら、留守番電話だわ。」
電話するなり、紀子先生はこう言った。
「じゃ真智子先生、どうしてるんだろう?」
この竹本先生の質問で、話は振り出しに戻った。
「旅行に行くなんて言ってるけど、きっと今頃部屋で大泣きしてるんじゃないかって思うのよね。」
紀子先生は、こう言った。
「でも、もし旅行へ行って忘れられるぐらいなら、一ヶ月ぐらい海外に行って来た方がいいんじゃない。」
稲垣先生は、こう言った。
「いや、海外はだめ。だって、中田先生って英語の先生だもん。『こんな時中田先生がいてくれたらなぁ』なんて事になっちゃうよ。」
紀子先生は、こう言った。
「そんなもんかなぁ・・・。」
稲垣先生は、こう言った。
「紀子先生、仲人役として明日あたり様子見てきたら?」
竹本先生は、こう言った。
「そやけど、中田先生と鉢合わせになるんとちゃうか?」
嵐山先生は、こう言った。
「いや、それはそれでとっちめて来るわよ。」
紀子先生は、自信満々で答えた。
翌日、学校は休みだった。紀子先生は、真智子先生の部屋のベルを鳴らした。返事がなかった。紀子先生は、もう一度ベルを鳴らした。ドアが重苦しくがたんと開いて、真智子先生が出てきた。
「真智子ちゃんどうしたの、随分痩せたじゃない。」
紀子先生は、驚いたようにこう言った。真智子先生は、黙ったままだった。
「おなか空いてるの? あたしおごるから、行こうよ。」
紀子先生が、こう言った。真智子先生は、重苦しい表情のまま出てきた。
近所でも評判の喫茶店。オムライスがおいしいことで評判だった。とは言え、まだ昼御飯には早かったから、店内は閑散としていた。暇そうにマンガを読んでいたウエイターが、重い腰を上げた。
「さ、何にする?」
紀子先生は、メニューを差し出した。
「うーん、エビピラフオムライスとぉ、ツナサラダとぉ、ミックスピザとぉ、アイスコーヒー。」
真智子先生は、色気よりも食い気と言わんばかりに、メニューをかったっぱしから読み上げた。紀子先生は、ただ圧倒されていた。
「じゃ、私はドライカレーオムライスと、ホットコーヒー。」
紀子先生も、おなかがすいたと言わんばかりに注文した・・・はずだった。ウエイターの男の子が店の奥へと歩いていった。
「それにしても、随分たくさん食べるじゃない。」
紀子先生は、びっくりしたようにこう言った。
「うん。ただ単に食べたかったものを全部言っただけ。」
真智子先生は、平然とした顔でこう言った。
「これでケーキでも加わったら、およそ男の子でも食べられるかどうかわかんないよ。」
紀子先生は、率直な感想を言った。
「あ、ケーキ忘れてた! すみません、チョコレートケーキ追加ぁ!」
真智子先生の食欲に、紀子先生はただ呆然とするだけだった。そして、真智子先生の前にサラダとオムライスが並んだ。真智子先生は、それを片っ端から食べまくっていた。
「食べて忘れられるぐらいなら、安いものか・・・。」
紀子先生は、こうつぶやいていた。こうやってつぶやいている内にも、真智子先生の前にはピザとケーキとアイスコーヒーが並んだ。それを、真智子先生は黙々と食べていた。
「ああ、やっと落ち着いたぁ!」
ピザを食べ終わった真智子先生は、気合いを入れた。
「で、ここからまだデザートって?」
まだオムライスを食べきっていない紀子先生は、呆れるようにこう言った。
「だって、あたし昨日から何にも食べてないんだもん。」
真智子先生は、満足そうにこう言った。
「ま、それはしょうがないような気もするけど・・・。」
紀子先生は、こうつぶやきながらオムライスを食べ始めた。
「取りあえず、これ食べ終わったら、海に行こう!」
真智子先生は、はしゃぎ始めた。
「えーっ、海に行ったら寒いんじゃない?」
紀子先生は、こう言った。
「いいの。ねぇ、行こ!」
真智子先生は、嬉しそうな顔をした。
この後、電車に乗った。終点からしばらく歩くと、誰もいない海岸線。真智子先生は、橋の上から海岸線を眺めていた。紀子先生も、つられて海岸線を眺めていた。
「このままずっと、眺めてたいね・・・。」
真智子先生は、こうつぶやいた。紀子先生は、じっと黙ったままだった。真智子先生は一体何を眺めているのか。真っ青な海。それとも、青空の中をゆっくりと流れる雲。それとも、遙か遠くに見えるヨット。この、動かない景色を、真智子先生はずっとずっと眺めていた。動いていたのは、すぐ後ろを流れる人。そして、寄せては返す波打ち際だった。紀子先生にとっては、とてもとても長い時間だった。
「ああ、だから今夜だけは・・・。」
真智子先生は、ぼんやりとした声で口ずさみ始めた。それを、まるで伴奏するかのように、波音が静かに聞こえた。
「楽しそうじゃない。」
紀子先生がこう言った途端、真智子先生の顔が見る見るうちに曇り始めた。そして、わーっと大泣きを始めるまで、何秒とかからなかった。紀子先生は、どうしていいかわからなくて、ただおろおろしていた。やがて、何があったのかと、人がちらりちらりと振り向き始めた。それでもなお、真智子先生は大泣きしていた。この二人の周りのちらりちらりが、瞬く間に人集りになった。
「真智子ちゃん、取りあえずこっち行こ。」
紀子先生は、真智子先生の手を引っ張って、近くの喫茶店に連れていった。席に着いたところで、ようやく大泣きは止まった。
「紀子先生、ごめんねぇ。」
真智子先生は、ぐすんぐすん言いながら、ひたすら謝り続けた。
「本当はね。昨日、力一杯泣いてたの。だから、今日からは絶対に泣かないって決めてたんだ。」
紀子先生は、ただじっと黙ったままだった。
「私ね。寂しくなるといっつもここへ来てたの。何て言うのかな。こう、海をじっと見てると、寂しさを忘れるって言うのかな。でも、今日はだめだったみたい。」
真智子先生は、またくすんくすん言い始めた。
「でも、寂しいんだったら、寂しいって認めてあげないと・・・ね。」
真智子先生は、わかったようなわからないような顔をした。
「寂しいことの次は、いいことあるって考えなきゃ。」
紀子先生は、こう言った。
この後、海岸線を抜けて、山に登り始めた。この山の上には神社があって、しかも海がよく見えるのだ。土産物屋さんが並んでいる坂を上り始めた時点で、紀子先生はぼやき始めた。
「きついねぇ、この坂。」
紀子先生は、もうこの時点でぜいぜい言い始めた。
「いいことあるって考えなきゃって言ったの、紀子先生でしょ?」
真智子先生は、平然とした顔で坂を上っていた。
「だからって、こんな坂の上の神社に行かなくったっていいじゃない。」
紀子先生は、周りにある土産物屋さんを、うらめしそうに見ていた。
「だからぁ、お寺とかぁ、神社ってぇ、歴史的に山の上が好きなの。」
真智子先生は、社会科の先生らしいことを言った。
「でも、京都とか、奈良って、真っ平らなところにいっぱいお寺があるじゃない。」
紀子先生は、ぼやきながらこう言った。
「だからぁ、京都・奈良って盆地じゃない。周りは山よ。」
真智子先生は、こう言いながらきつい坂道を登っていった。そして、土産物屋さんが途切れた辺りで、今度は長くて急な階段が待っていた。
「真智子ちゃん、まだぁ!」
紀子先生は、もう我慢ができないと言わんばかりにこう言った。
「ここからはちょっと根性がいるかな?」
真智子先生もさずがにきついらしく、口数が少なくなった。
「ねぇ、エスカレーターがあるよ。乗ろうよぉ!」
紀子先生は、目の前に見えるエスカレーターを指差した。
「だからぁ、ご利益はぁ、苦労しないとありつけないの。」
真智子先生は、紀子先生の不満の声も耳を傾けず、ただひたすら階段を上っていった。そして、ようやくお目当ての神社に着いた。真智子先生は、財布から百円玉を出した。そしておもむろに賽銭箱に投げ入れ、ぽんぽんと二回拍子を打った。
「真智子ちゃん、一体何をお願いしてるんだろう?」
やけに長い間手を合わせている真智子先生を眺めていた紀子先生は、何をお願いするわけでもなく、こんな事を考えていた。
「さ、次行こ、次。」
真智子先生は、山の上を指差した。
「えーっ、まだ登るのぉ!」
紀子先生は、大いにぼやいた。そして、真智子先生は元気いっぱいに、上へ上へと登り始めた。もっとも、元気と言うよりは、空元気かも知れないけど。
真智子先生がたった一日だけの感傷旅行に行っている間、中田先生は公園にいた。あの保健室での事件があった日、今日この時間に公園に来いと呼び出されたのだ。
「先生っ!」
制服姿の富田さんが、手を振りながら走ってきた。
「やっぱりお前か・・・。」
中田先生は、ため息混じりにこうつぶやいた。
「先生、遊びに行こっ!」
富田さんは、やけにはしゃいでいた。
「うん・・・まあ、いいけど・・・。」
中田先生は、気の進まないような声をあげた。
「それにしても、何も制服着てこなくたっていいじゃない・・・。」
中田先生は、こうつぶやいていた。
「あたし、行きたいとこがあるんだぁ!」
富田さんがこう言いながら、中田先生の手を引っ張った。
「どこ行くんだよ?」
中田先生は、電車の中でこう聞いた。
「いいから、いいからぁ!」
はしゃぐ富田さんが連れていったところは、国際線もある空港だった。賑やかで結構おしゃれなところへ行くのかと思いきや、離着陸する飛行機がよく見えるところだった。ここから見える飛行機はすっごく大きくて、なぜこんなものが飛べるのかと、およそ小学生が考えるような疑問を、大人ですら思いつくぐらいだった。
「あたしね。高校卒業したら、英文科に行きたいんだぁ。」
飛び立つ飛行機を眺めながら、富田さんがこう言った。
「大学卒業したら、航空会社か旅行会社に行きたいの。」
富田さんの目が、やけに輝いていた。
「なんで?」
中田先生は、こう聞いた。
「だって好きなんだもん、英語が。先生も、そうだったんでしょ?」
富田さんは、飛行機のエンジン音に負けないように、大きな声をあげた。
「そうだな。先生の場合は、気が付いたら英語しか残ってなかったな・・・。」
中田先生も、大きな声をあげた。
「本当はね。工学部に行きたかったんだ。でも、二年生の時に基礎解(基礎解析)と代幾(代数幾何)でつまずいちゃってね。手元には、英語しか残ってなかったな。」
中田先生は、高校時代を思い出すようにこう言った。
「何それ?」
富田さんは、不思議そうな顔をした。
「中学校行ってた頃、実は英語が嫌いだったんだ。でもね。高校時代にぐんと伸びてね。いつの間にか、面白くなってきたんだよ。」
中田先生は、なつかしそうな顔をした。
「へぇ・・・。」
富田さんは、意外そうな顔をした。
「でも富田だったら、きっと行けるよ。英文科。英語の成績いいからさ。推薦入試受けたら? 現役の時だけだよ、こんなチャンス。推薦状だったらいくらでも書くからさぁ。」
中田先生は、こう言った。
「うん。」
富田さんは、嬉しそうに飛行機を眺めていた。
あれから飽きるまで、ずっと飛行機を眺めていた。端から見ていると、およそ社会見学か、修学旅行の一行にはぐれた先生と生徒に見えたかも知れない。何しろ、冷ややかな目で見れば、ただ飛行機が飛んだり降りたりするだけ。それを何時間も、ずっと見ていた。
帰りの電車で中田先生と富田さんは、長いシートに隣同士座った。
「本当はね、先生のことが好きだったんだぁ。一年生の頃から。だから、英語ががんばれたって言うのもあるな。」
富田さんは、電車の中で思い出したようにこう言った。
「だから、あんなことやったのか?」
中田先生は、こう言った。富田さんは黙ったまま、飛び立つ飛行機を名残惜しそうに眺めていた。空港ではあんなに大きかった飛行機が、随分小さく見えた。
「先生を独り占めしちゃ、いけないんだぞ。」
中田先生は、こう言った。
「わかってる。もうやらない。でも今日だけ、独り占めしたかったんだぁ!」
富田さんは、中田先生にぴったりとくっついた。中田先生は、黙ったまま微笑んだ。飛び立つ飛行機はもうとっくに見えなくなっていて、もう飛んでしまった飛行機がはるか上の方にかろうじて見えるぐらいだった。それが、やがて点になり、もう見えなくなった。
「で、先生は、あたしの肩を抱くの。」
中田先生は、言われるままに、すっと肩を抱いた。富田さんは、満足そうに中田先生の肩にちょこんと頭を乗せた。ほんのりとあったかかった。ぎゅっと抱きしめたくなる気持ちを必死でこらえていたのを、幸せそうな富田さんは気づいたかどうかはわからない。窓の外では空が黄色くなって、次第に赤くなってきた。やがて、家々に明かりが灯り始めた。
「あたし、一度でいいからこんなことしてみたかったんだぁ・・・。」
富田さんは、むしろ寂しそうにこう言った。中田先生は、ふと窓の外を眺めた。何を作ってるのかはよくわからなかったけど、ずらりと工場が建ち並んでいた。その煙突やら、建物やらが白い光で包まれていて、すごく綺麗だった。
「先生、終点までこのまんまだよ・・・。」
富田さんは、今までにないような幸せな顔をした。
「・・・わかったよ。」
中田先生がふと見ると、富田さんの頬に涙が一筋浮かんでいた。でも、まるで眠っているようだった。先生を困らせたいけど、困らせたくない。これが正直な気持ちだったのだろう。周りの人から見るとゆっくりとした電車も、まるで新幹線にでも乗っているかのように、あっと言う間に感じたかも知れない。スピード感を感じないだけで。
こうして、中田先生も、正確には富田さんもまとめて、一日だけの感傷旅行を楽しんでいた。
次の日、真智子先生はショックを未だに隠しきれない顔で、学校に来た。
「中田先生は?」
真智子先生は、学校に着くなりこう聞いた。
「自宅謹慎や。先は長いで。」
嵐山先生は、こう言った。
「やっぱり、会いたい?」
紀子先生は、こう聞いた。
「会いたいような、会いたくないような・・・。」
真智子先生は、上を向いた。
「わかるような気もするけど。」
紀子先生は、こう言った。
「そやけど、いつかは会わなあかんねんで。」
嵐山先生は、こう言った。
「そうよねぇ・・・。」
真智子先生は、でもまだ迷っているようだった。
やがてベルが鳴り、嵐山先生と真智子先生が隣同士の教室で教えることになっていた。
「決意したつもりだったんだけどなぁ・・・。」
真智子先生は、こうつぶやいた。嵐山先生は、黙ったままだった。渡り廊下を過ぎ、階段を上っても、黙ったままだった。
こんな感じで、悩める真智子先生状態が一週間ほど続いた。何を喋るわけでもなく、微笑むわけでもなく、かと言って大泣きするわけでもなく、ただぼんやりとしていた真智子先生。それを周りは、腫れ物に触るような気持ちで真智子先生を見守っていた。
「決めた!」
中田先生の復帰まで後一日。真智子先生は、出勤するなりこう言った。
「真智子先生どないしたん?」
嵐山先生は、不思議そうな顔をした。
「だからぁ、決めたの。私なりに色々悩んだけどね。」
真智子先生は、むしろ笑顔でこう言った。
「で、どうするの?」
紀子先生は、こう聞いた。
「取りあえず、白紙に戻そうかなって。」
真智子先生は、真顔だった。職員室内は、しばし沈黙が流れた。
「白紙? そらどう言う意味やねん?」
嵐山先生は、不思議そうな顔をした。
「そのものずばりだって!」
真智子先生は、元気そうにこう言った。
「ま、それもいいんじゃないの。」
紀子先生は、真智子先生の肩を叩いた。
「そやな。今までのことはなかったことにして、またやり直すのもええんとちゃうか?」
嵐山先生は、こう言った。そして、先生方全員が、真智子先生を激励した。
これを知らない中田先生は、その頃一人ぽつんと自分の部屋の中で、
「真智子先生、今頃どこ旅してんだろ? 真智子先生って歴史が好きだったから、もしかして京都の一人旅かな?」
と思い悩んでいたかどうかは、定かではない。ただ、中田先生からしても、この一週間は、とてもとても長かったに違いない。