チャット -私のこと覚えていますか?


 今晩もまたキーボードの前に向かっている。別に仕事を抱え込んでいるわけではなく、ただチャットをしているだけ。なぜって。私は、ある人を探しているのだった。

 あれからどれぐらい経っただろう。私は、どこともよく知らない草の根ネットに遊びに行っていた。フリーボードとかを読んでいたら、急に

「ねぇ、チャットしようよぉ!」
「チャットチャットチャットぉ!」

 というメッセージが流れた。私、まだチャットなんてしたことがなかったからよくわからなかったけど、取り敢えずメニューから「チャット」って書いてあるのを選んだ。そうすると、矢継ぎ早にメッセージが流れた。どうやら、キーボードから打った内容がそのまんま相手にも流れるらしい。私は、わけもわからずこう打った。

「失礼ですが、お名前は?」
「人は私をMKYと呼びます。」

 で、その後、彼は私の家の近所に住んでいる事がわかって、そのまま会いに行く事になった。最初は喫茶店で、それが居酒屋に行き、カラオケボックスに行き、いつの間にかもしもしピエロとか言うところに居た。その後、彼は私を悦楽の世界へと導いてくれた。私は、急に身体中を電気のような物が走って行くのを感じた。ああ、私がずっと探していたのは、彼だったのかもしれない・・・。いや、この人が、彼こそが私の求めていた人だったのかもしれない・・・。私は、たった一晩で恋に落ちた。

 その後の事は、私の記憶になかった。ただ、彼はネットでMKYと名乗っていた事。気がついたら地下鉄の駅の改札の前に居た事。私が覚えていたのは、それだけだった。それ以来、彼を見つけたい一身でチャットを続けているのであった。このネットにいなければ、あのネットへ。あのネットへ行ってもいなかったら、他のネットへ。私は、BBS電話帳だけを頼りに、あちらこちらのネットをさまよい歩きつづけるのだった。

 だから、会社はほとんど電話代を稼ぎに行くような物であった。別に誰と話をするわけでもなく、ただ仕事に関係あること、そして社員食堂で同僚の子とちょっとだけ話をするぐらいだった。その時度々出て来るのが、

「麻衣子先輩って、恋しないんですかぁ?」

 という話であった。私、別に恋しないわけではない。ただ、相手が誰だかわからないだけであった。とは言え、まさか真実を話すわけにはいかず、ただ私は軽く微笑んでごまかす、そんな毎日だった。

 ところがある日、たまたまチャットをしていたら、ハンドルネーム「MKY」という人が居た。もして、彼があの彼なのだろうか。どうしよう。この人とチャットを続けたい。会ってもう一度話をしたい。話をして私の思いを告げたい。でも、もし彼が私のことを覚えていてくれなかったとしたら、どうしよう。

 私は、ただ迷っているだけだった。迷っているだけで、キーボードに手が伸びなかった。チャットのメッセージだけがただ流れていた。茫然としている内に、彼はログアウトしてしまった。

 次の日、私は会社の机の上でぼーっとしていた。もし、私が昨日の晩彼と出会えていたなら・・・。そんな後悔だけがただ頭の中を駆け巡っていた。

「先輩、もうお昼ですよ。一緒に食べに行きましょうよ。」

 さすがに何も食べないわけには行かないので、私はしぶしぶ社員食堂へと向かった。

「麻衣子先輩、なんか今日おかしいですよ。一体どうしたんですか?」

 私は、ただ「うーん」と生返事を返すだけだった。今、私の耳には何も聞こえない。耳がストライキを起こしているようだった。ただ、聞こえるのはどこからとこなく聞こえる男共の雑談だけだった。

「へぇ~、お前もパソコン通信やってたのかぁ。」

 私は、はっとした。もちろん、パソコン通信なんて今時誰でもやってるから目新しいことはなかった。が、そのどこからともなく聞こえて来る会話の中には、やたらチャットという単語が出て来たのだ。私は、耳を凝らしてよく聞いてみた。会話は私の座っているテーブルのすぐ後ろから流れていた事がわかった。もっとよく聞いてみた。

「へぇ、相手は女の子だったの? 珍しいねぇ、女の子がチャットなんて。」
「うーん、でもなんか変なんだよなぁ。俺が名乗った途端、何にもメッセージが返って来なかったんだよ。」
「へぇ、で、お前ハンドルネームは何だっけ?」
「うん、MKYって名乗ってるけど・・・」

 MKY・・・。信じられなかった。まさか彼がこの会社にいるなんて。本当に信じられなかった。私の耳は、また急にストライキを始めた。

 それからと言うもの、私は変わった。彼が眼鏡を掛けている女が嫌いと言う話をすれば、コンタクトレンズを買って来る。派手な化粧が嫌いと言えば、すっぴんで会社にやってくる。ミニスカートが好きと語れば、パンツが見えそうなほどのミニスカートをはいて来る。そして、社員食堂で彼の様子をうかがった。しかし、彼の様子は変わらない。

 くやしいから、私は思い切った格好をした。派手なメイクに、胸ぐりの深いブラウス。ぎりぎりのミニスカートに黒いパンスト。もうこれでもかこれでもかと言わんばかりの格好をして会社に行った。後輩は、この私の変りようにただびっくりしていたようであった。

「麻衣子先輩、最近どうしたんですかぁ? なんか急に色気づいたみたいですよ。」

 これなら彼も振り向いてくれるだろうと思った。でも、何も変わらない。

 それならということで、私は社員食堂に先回りして、彼がいつも座っている席の隣を陣取った。それでも彼は何も変わらなかった。

 私の回りは、にわかに騒がしくなったようだ。なんでも、全然色気のなかった野村麻衣子が急に変わっただの、ひょっとしたら恋いでもしたんじゃないかだの、台風でも来るんじゃないのだの。私の気の知らない人は、好き放題言う物であるなぁと実感したのであった。

 そんなある日、彼がいつもの通り社員食堂で話をしているのを聞きつけた。

「・・・そうかぁ、知らないのかぁ。」
「いや、覚えがないなぁ。」
「だって、経理課の野村のやつ、最近俺達の話した通りの女になっていくからさぁ、ひょっとしてお前のこと知ってんじゃないかと思ったんだけど。」
「いや、俺は全然話した事もないよ。」
「そんなこと言ってぇ、お前またいつもの通りチャットで呼び出してんじゃないのかぁ?」
「なんでぇ、MKYってやつはいくらでもいるぜ。大体ハンドルネームはいくらでも変えられるんだからさぁ。」

 その晩、私は泣いていた。一晩中泣き明かした。夜がふけて朝になっても泣いていた。

 次の日、私は会社を休んだ。どうせ会社なんて行きたい気分でもない。私は、ただ悲しい気持ちを押さえたい一心で朝っぱらからチャットを繰り返すのだった。このネットに誰もいなかったら次のネットへ。次のネットにも誰もいなかったら、他のネットへ。他のネットも回線ががら空きだったら、また他のネットへ。気がついたら、身体中ぼろぼろになっていて、深い眠りについていた。

 目が覚めると、午後6時。私は、ふらふらと外へ出た。別にどこへ行こうとしている訳でもなく、ただふらふらと外へ出た。でも、頭では拒否しているのになぜか足だけは会社のある方角へと向いているようであった。私は、歩いている内に段々と意識がもうろうとして来た。そして、ふと歩道の段差に足を取られたところで意識がぷっつりと切れた。

 気がつけば、私はなぜか会社の医務室に横たわっていた。ふと左に視線を移すと、私の後輩が心配そうに眺めていた。

「麻衣子先輩! どうしたんですか? 会社の前で倒れてたんですよ。で、この人に運んでもらったのよ。」

 右に視線を移すと、彼がじっと眺めていた。私の後輩には「あんまり遅くなるから」と言って帰ってもらった。

 医務室の中に彼と私だけが残った。私は、とめどなく涙が流れた。

「どうして、どうして私を助けたのよ!」

 私は、いっぺんに胸が張り裂けた。胸が張り裂けた私は、泣き声とも叫び声ともつかない声をあげた。

「そりゃあ助けるでしょう。それともあんたずっと会社の前で寝てるつもりだったんですか?」
「寝てるわよ。ずっと会社の前で寝てるわよ。」
「そんな無茶な事を・・・」
「無茶よ! 私が恋したっていいじゃないのよ! ただ、私が思ってた人は、誰なのかわからないだけなのよ。一度チャットで話してそれっきりなんだから。」

 彼は、黙り込んだ。それから、しばらくの間沈黙が続いて、彼がこう言った。

「この前、俺がチャットしてたら、何も答えが帰って来なかったんだ。その相手というのは、君だったの?」
「・・・いいのよ、あんたにはわからないわよ。女なんてずっと待つ身なのよ。待ってて悲しむのはいつも女なんだから!」

 私は、もう何が何なのかわけがわからなくなった。

「知ったかぶりするんじゃないよ!」

 彼は、急に怒鳴った。

「そりゃあ、君が好きになった相手が誰なのかはわからないよ。ひょっとしたら俺なのかもしれない。でも、それじゃあ恋に恋してる少女と一緒じゃないか。どうして目の前にいるやつを好きになろうとしないんだ!」

 私は、何も言えなかった。乾いた涙は、また流れ始めた。

「さあ、落ち着いたら帰ろう。明日は仕事だろ? 送って行くから。」

 それから、私はやっぱりチャットを続けている。と言っても、別にあの時の彼を探したいがゆえチャットをしている訳ではない。そんなことは、今の私には別にどうだっていいのだ。ただ、あの時の彼かどうかわからない彼が、私の横に座って手ほどきしてくれるのだった。