天使は降ってわいてくる


第二章 二回目のファーストキス

新しい学校、新しい制服・・・

入学式の日。たまたま隣に座っていたのが、今の彼女の高橋知子だった。あの時の第一印象は、・・・緊張しててよくわからなかった。ただ、一番最初に席に着いたとき、隣に座っていたというただそれだけの理由で、

「こうやって座ってたらいいのかな?」
と聞いたのが、始まりだった。

「そうみたいですね。」
と彼女が答えていたのだけは、今でも覚えている。

あれから授業が始まって、俺はしょっぱなから教科書を忘れてきた。座席は、名簿順に横へ並んで座る格好になっていた。だから、入学式の時、俺の隣に座っていた高橋は、授業でも隣の机に座っていた。

「ごめん。教科書忘れた。」
俺は高橋に、両手を合わせて頼み込んだ。

「しょうがないわねぇ・・・。」
高橋は、机の中から数学の教科書を取り出した。

「その代わり、条件があるわよ。」
高橋は、にっこりと笑った。

「来週の日曜日、あたしと遊びに行くこと。」
高橋が出した条件は、これだった。

「へ?」
俺は、わけのわからない顔をした。

「だって、暇なんだもん。」
およそ聞くんじゃなかったという理由が帰ってきた。俺は、悩むことなくこの条件をのむことにした。しかし、一回目の授業で教科書を開くことはなかった。高校の数学とはこんなことをするんだよと言う説明が長々とあった後、全員で自己紹介をしただけで五十分が過ぎてしまった。結局、高橋との約束が残っただけになった。

恋のきっかけという物は、大抵が偶然発生した些細な理由である。例えば、帰り道が一緒だったとか、趣味が一緒だったとか、友達の友達だったとか、はたまた話が合ったからとかが典型的な例である。そして、この偶然に偶然が重なって、恋が生まれる。仮に出会ったきっかけがナンパだったとしても、なぜその女の子に声を掛けたかと言う質問に、まともな答えを返せる男の子は滅多にいないだろう。精々、かわいかったからぐらいの理由だ。

俺が高橋とつきあったきっかけと言うのもまさにそれ。偶然席が隣同士で、しかも偶然ボブヘアーの似合うすっごくかわいらしい女の子で。更に、偶然俺が教科書を忘れてきて・・・と。恐らくこの偶然起こった出来事のうち、一つでも欠けていたらこの恋はなかっただろう。

そして、運命の日曜日が来た。待ち合わせたのは、およそ俺が降りたことはおろか、名前も聞いたこともない駅だった。ちっちゃな駅のホームの脇に、ちっちゃな改札口がちょこんとついていて、ここが待ち合わせ場所だった。駅の前には焼きたてのパン屋さんがあって、パンが焼けるあのバターとも何ともつかない匂いが、すごく心地よかった。

「ごめん、待った?」
緑のタータンチェックのスカートに、紺色の制服姿もかわいかったけど、ちょっと水色のかかった黄緑色のミニスカート姿も、すごくかわいかった。

「ここいい匂いするね。」
俺は、思わずこう言った。

「ああ、あのパン屋さんね。あたしお弁当持って来なかったとき、あそこのパン買って行くの。」
高橋が、うれしそうに言った。

「ねぇ、一番高い切符買って。」
俺は、自動券売機の上にでかでかと書いてある、運賃表を見た。この電車には終点がいくつも書いてあって、高橋がどこへ行こうとしているのかはよくわからなかった。俺は言われるままに一番高い切符を買って、自動改札機をくぐり抜けた。高橋はとっくに改札を抜けていて、俺を手招きした。

「それにしても、ここから学校まで、ずいぶん遠いんじゃない。」
ホームで電車を待つ間、二人隣同士ホームで立ったまま喋っていた。

「うん。朝早いからちょっと大変。でも、ラッシュと逆向きに乗るから、思ったよりは大変じゃないよ。」
高橋は、こう言った。

「でも、一番高い切符買って、どこ行くの?」
これが俺の、一番の疑問だった。

「渋谷。」
高橋は、平然とこう答えた。

「行ったことある?」
高橋は、こう聞いた。

「ない。」
「そっかあ・・・。」
高橋は残念そうに、ホームの反対側を眺めていた。どうやら、俺に案内してもらう心づもりだったらしい。

「あたしもまだ行ったことがないの。前から行きたかったんだけどね。でも一人で行きたいと思わなかったから、小西君を誘ったの。」
これが高橋の言い訳だった。

やがて、電車が止まった。俺は、高橋と手をつなごうかと、躊躇した。

「来週クラブ紹介だったね。」
電車の中で、俺はこう言った。

「うん。全員入んないとだめだもんねぇ。」
うちの高校はクラブ活動に力を入れていて、週一回、火曜日の六時間目が全員クラブの時間になっていた。だから、必ず生徒全員がどこかのクラブに属しないといけない決まりになっていた。ただし、これには逃げ道があって、全員クラブの時間しか活動しないクラブというのがあった。だから、クラブ活動をするつもりのない生徒は、この全員クラブのみのクラブに籍を置けば、火曜日の六時間目が終わると帰れる仕組みになっていた。

「どうしようかなぁ。俺真面目にクラブなんてやった記憶ないぞ。」
俺は、腕組みした。

「あたしも。帰宅部だったもん。」
帰宅部というのは、授業が終わったらさっさと帰る、つまりどのクラブにも属していないと言うことだ。

「やっぱり、全員クラブかな?」
俺は、こうつぶやいた。

「じゃ、同じクラブに入らない?」
高橋は、ちょっとはしゃくようにこう言った。

「そうしよう。」
俺は、こう返事した。

やがて、電車が終点に着いた。普段乗り降りする駅よりもずっとずっと大きくて、それ以上に人がまた多いこと。いつもの駅よりよっぽど狭く使われている、渋谷駅。俺も高橋も、その人の数に圧倒された。

「自動改札が、いっぱい並んでる!」
高橋は、およそ大人から見ればわけのわからない感動の仕方をした。

「ねぇ、どっち行ったらいいと思う?」
高橋は、早速おろおろし始めた。

「取りあえず、人が歩いていく方向へ歩こう。」
俺は、高橋とはぐれないように、しっかりと手をつないだ。高橋の手がちっちゃくて、でもふっくらとしていた。高橋は、すごくうれしそうだった。これも偶然が運んでくれた、うれしい誤算だった。

「ハチ公が見たい!」
高橋は、はしゃぎ始めた。もちろん、どこへどう歩いたら見えるのか、俺にも高橋にもよくわからない。取りあえず、ハチ公口と書いてある看板を頼りに、渋谷の駅をうろうろした。そして、俺と高橋を待っていたのは、・・・すっごくたくさんの人だった。確かに、ここがハチ公口のはずだけど、肝心のハチ公が全然見えなかった。しかも、あんまりにも人が多すぎて、近づくこともできなかった。実物と写真とは、えらい違いだった。

「ここ、本当にハチ公がいるの?」
高橋は、俺を疑うようにこう言った。

「たぶん・・・。」
ここで自信を持って、あの人集りのあたりにハチ公の像があるんだよ、と言えないところが悔しかった。

何しろ、渋谷に来たのはいいけれど、そこから先は何も決まってなかったし、何もわからなかった。取りあえず、たくさん歩いている人について行こうという事になった。人の流れに従ってついて行くと、たまたまハンバーガーショップの横を通った。ちょっと早いけど、昼ご飯にしようかって事になった。

「渋谷って、やっぱり広いねぇ・・・。」
きっと俺達は、渋谷の端っこすら歩いてないんじゃないかと思う。しかし、高橋はすごくうれしそうだった。つまり、ただ渋谷にいると言うだけで嬉しかったのだ。

昼ご飯の後、誰かについて行ったらどこか着くだろうと言う、相変わらずのノリで歩き回った。ようやく着いたのは、渋谷Loft。ここでも、やっぱり人の山。およそ、ショッピングを楽しみに来たのか、人が見たくて来たのか、よくわからなかった。それでも、面白そうな小物を見つけては、喜んでいた。

「ねぇねぇ、これかわいいと思わない?」
こんな感じで、目覚まし時計を見つけては手に取り、ジグソーパズルを眺めては立ち止まり、オルゴールを見ては嬉しそうな顔をし、かわいらしいキャラクターグッズを手にしては欲しそうな顔をした。俺はと言うと、高橋のはしゃぐ姿を見ては、つられて嬉しくなった。まさかこの後に、大ピンチが待ちかまえているとは考えても見なかった。

「ねぇ、出口どっちだっけ?」
高橋がこう言った瞬間、俺ははっとした。高橋に見とれていた俺は、どこから入ってどこを通ったのか全然覚えていなかった。高橋も俺も、頭の中が真っ白になった。およそ迷路のような店内。俺は、高橋の手をしっかりと握った。そして、人をかき分けながら、あっちをうろうろ、こっちをうろうろし始めた。棚の上に並んでいる商品など、もうどうでも良かった。

ようやくエスカレーターを見つけ、下へ下へと降りていった。そして、苦しんだ挙げ句に見つけた出口の向こうは・・・見たこともない風景だった。

「これ絶対出口が違うよ。」
そんな事は、高橋に言われなくてもわかっていた。かと言って、もう人だらけの店内に戻る気にはなれず、俺はかまわずこの出口から出ることにした。そして二人を待ちかまえていたのは、渋谷Loftと言う名のラビリンスを上回る規模の、それはとてもとても広い迷路だった。

「ねぇ、ここどこぉ!」
高橋の質問にも、俺は答えることができなかった。何しろ、俺の動物的直感で道を決めているから、今どこを歩いていて、これが本当に駅へと続く道なのかわからなかった。しかも、この坂の多いこと。

「小西君もうだめ。足が痛い・・・。」
自動販売機の前で、高橋が座り込んでしまった。

「取りあえず、ちょっと休もうか。」
俺はポケットから小銭を出して、烏龍茶を二本買った。

「ああ、こんなおいしい烏龍茶初めて。」
俺は、最悪の場合は高橋をおんぶする覚悟を決めた。

行けども行けども、駅は見えなかった。

「ねぇ、もしかして反対に歩いてんじゃないの。」
高橋がぼやく様にこう言ったとき、空は黄色くなりかけていた。

結局、駅に着いて電車のシートに座る頃には、完全にぐったりと疲れていた。

「やっぱり、慣れないところへは行くもんじゃないね。」
高橋は、帰りの電車でこうつぶやいていた。

今日は、クラブ紹介。例によって、俺の隣には高橋が座っていた。

「体育系だったら、小西君と別々になっちゃうもんねぇ・・・。」
高橋は、クラブ紹介の冊子をぱらぱらとめくりながら、こう言った。

「一時間だけとは言え、走りたいとは思わないもんなぁ・・・。」
俺は、こう言った。

「かと言って、茶道部とか華道部なんて小西君がかわいそうだし・・・。」
高橋は、ちょっと考え込んだ。

「一番無難なのは、ESSかな?」
考えた挙げ句の答えが、これだった。

「えー、クラブ行ってまで勉強かよぉ!」
俺は、こう言った。

「そんなこと言い出したら、行けるクラブなくなっちゃうじゃない。走るのやだ、勉強はやだ、後なにが残ってるのよ。」
高橋は、不満げな顔をした。

「ま、クラブ紹介見てから決めても遅くはないんじゃない?」
俺は、こう言った。

「そうね。」
高橋がこう言った後、いよいよクラブ紹介が始まった。

どのクラブが何を紹介していたのか、俺はよく覚えていない。きっと、高橋もそうだったはず。しかし、各クラブのメンバーは、ここぞとばかりにアピールした。・・・と思う。体育系のクラブはと言うと、大抵はユニホームに身を固めて、せりふを棒読みするクラブが大半だった。文化系はと言うと、クラブの規模によって大差が出た。凝ったスライドを作るクラブあり、にわか仕立てのチアリーダーが出たりするのは、部員の多いクラブ。少ないクラブはと言うと、何の変哲もない一人だけぽつんと立って、

「今部員は僕一人しかいません。誰か入って下さい。」
と涙ながらに訴えていた。ただし、これら宣伝をするクラブというのは、全員クラブ以外の時間も活動する部員しか入部が認められないクラブばっかりだった。

「見るんじゃなかったね。」
と、高橋がぼやくぐらいだった。

「さて、どのクラブに入ろうかな?」
と、最初の疑問にまた逆戻りしてしまった。

結局、高橋がESSに入った。全員クラブのみの参加だ。俺も、高橋に流されるままに、同じクラブに入部した。

「小西君、勉強するの嫌だったんじゃなかったのぉ!?」
誰のせいでこのクラブに来たんだと、俺は言いたくなったのをやめた。

こんな感じで、授業を受けるのも、クラブに行くのも、駅まで帰るのも、高橋と一緒だった。いつも一緒にいるから、変化はよくわからなかった。でも、急に髪の毛を束ねてポニーテールにしてみたり、訳の分からない理由で泣き出したり・・・と。その度、

「ねぇねぇ、小西君・・・。」
と、はしゃぎ回る高橋が、すっごくかわいかった。

そして、日曜日になってまで、一緒だった。

「小西君っ!」
この日も、焼きたてのパン屋さんがある、あの駅で待ち合わせていた。

「かっこいいでしょ? 小西君が好きそうな、ひらひらのミニスカートだよ!」
高橋の顔が、やけに嬉しそうだった。

「へぇ~~~っ。知子ちゃんスカート似合うもんな・・・。」
俺も、嬉しそうな顔をした。その瞬間、高橋はすっと両足を開いた。

「うそーっ!」
高橋が履いていたのは、キュロットスカートだった。それがわかるように、わざと両足を開いたのだ。

「お前なぁーっ!」
と怒る俺の顔を見ては、きゃっきゃっと喜んでいた。これがまた、かわいいのだ。

そして、デートコースはと言うと・・・彼女の家の近所にある公園だった。公園と言っても、砂場があって滑り台があってブランコがあって、申し訳程度にベンチが置いてある児童公園とは訳が違う。大きな池があってボートもあったし、釣り堀もあったし、公園内を一周する全長二キロのマラソンコースもあったし、野球場もあったし、競技用のプールもあった。もちろん、噴水は至る所にあったし、思いっきり遊べる広場もあっちこっちにあった。しかも、ちゃんと陸上競技やらサッカーやらができる競技場もあった。更に、およそ人気のない森もあったし、お金はいるけど植物園もあった。大人から見ればタイニーなデートコースかも知れないけど、毎週遊んでいたとしても飽きることがなかった。

「中学生の頃、ここでオリエンテーリングやったの。でも、スケッチだけじゃ全然わかんないよぉ。うろうろ歩いてて、たまたま『あ、これ似てんじゃない』みたいな感じで探したの。」
と、およそ物心付いた頃からこの公園に行っていた高橋が言うぐらい、とてもとても広い公園なのだ。

今日は、彼女がお弁当を作ってきてくれた。

「朝、五時起きして作ったんだよぉ!」
と言って、リュックサックから小さい包みを二つ出した。中には、サンドイッチがぎっしりと入っていた。俺は、早速サンドイッチに手を付けようとした。

「ちょっと待った。ここで、ゲームがあるの。」
高橋は、にこにこしながら言った。

「このサンドイッチね。一個だけ思いっきりからしを入れてあるの。からし入りのサンドイッチを食べた方が、相手の言うことを一個だけ絶対に聞くの。」
そんなのありかよ。高橋は、どのサンドイッチに罠を仕掛けてあるか知ってるんだろう。俺はそう思った。

「言っとくけど、私だってどこに罠仕掛けてあるかわかんないんだよ。『一個だけからし入れて』ってお母さんに頼んだから。」
かくして、ロシアンルーレットのようなお弁当タイムが始まった。まずは俺から。キュウリと卵がはさんであるサンドイッチを手に取った。それを口に運ぶのを、高橋はどきどきしながら眺めていた。

「セーフ!」
俺は、心の中で叫んだ。

次は、彼女の番。高橋は、チーズとハムがはさんであるサンドイッチを手に取った。それをがぶりとかじりつこうとする瞬間、彼女は目を閉じた。そして・・・

「セーフ!」
高橋は、ほっとした顔でサンドイッチを食べ始めた。

この後、一個、また一個と、なかなか罠が顔を出さなかった。一口かじる度に緊張し、またかじった後の安堵感。しかし、サンドイッチは残り少なくなってきた。残りはあと二つ。

「小西君、まさか女の子にからし入りを食べさせよう何て考えてないよね?」
からし入りを避けようとする俺に、彼女はブロックを掛けた。もしここでからしの入っていない方をかじったとすると、彼女は自分で仕掛けた罠に自分ではまる訳だ。いかにも辛そうで、涙まで流している高橋の顔を見たい気もするし、そんな顔をさせるなんてかわいそうだと言う気もあった。しかし、二つのサンドイッチを眺めてみても、どっちがどっちだか全くわからない。わからないなら、もしこれがセーフでも言い訳はつくよな。俺はそう言い聞かせながら、一つ手に取った。

「さあ、お母さんに思いっきり入れてって頼んであるもんなぁ・・・。」
高橋は、いよいよ楽しそうな顔をした。そして、俺は目をつぶって、意を決して口を閉じた答えは・・・

「セーフ!」
俺は、右手で大きくガッツポーズをした。高橋は、急にあわて始めた。

「知子ちゃん、これ食べなきゃもったいないよ。」
俺は、急に嬉しくなった。

「えーっ、でもこれからし入りじゃない。小西君食べてよぉ!」
高橋は、ずるい事を言い始めた。

「それはルール違反じゃない。やっぱり、これはがぶりと・・・。」
高橋は、いよいよ困った顔をした。俺はと言うと、さてどんな約束をしようなかと考えていた。宿題やってって言うのもあれだし、ちょうど目の前に人目に付かない茂みがあるから、その奥で二人っきりになって高橋を優しくそっと・・・いや、それはいくらなんでもまずいな。せめて二人でキスしよう、ぐらいにしておこうかな。俺は、こんなことを考えていた。そして、高橋は意を決したようにがぶりとサンドイッチにかぶりついた。

「あれ?」
高橋は、きょとんとした。からしが入っていなかったのだ。と言うことは、お弁当箱の中にはからし入りサンドイッチはなかったの?

「たぶんお母さんが忘れたんじゃないかしら?」
こんな事を言って、高橋は無邪気に微笑んだ。結局、ゲームは引き分け。どっちかが、もう一方の言うことを聞く話も、おじゃんになった。

他にも、こんな事があった。

高橋が、バレーボールを持って来た。

「何それ?」
俺は、こう聞いた。

「バレーボールしよっ!」
高橋は、これからがんばって運動するぞと言わんばかりのショートパンツ姿だった。

「えーっ!」
俺がブーイングした。そしたら、高橋が手招きして、

「もしリレーが百回続いたら、エッチしよう・・・。」
俺にこう耳打ちした。高橋は、ほっぺたを赤らめていた。こうなると、前言撤回。男の子は俄然力が入るのだ。

「よしっ、行くぞ!」
俺は、意気揚々と公園に向かった。

「じゃあ、行くね!」
遠くに離れた高橋が、白いボールをかざした。

「言っとくけど、アタックはなしだぞ!」
俺は、大きな声をあげた。

「ボールを上に打ち上げるんだぞ!」
俺は、更に大きな声をあげた。

「それから、九十九回でわざと落とすのなしだぞ!」
こうして、元気よくバレーボールとなったのだけど、百回なんて夢のまた夢。およそ十回がやっとだった。

「頼むから上に打ち上げろって言ったろ?」
俺は、大きな声を上げた。

「そう言うけど、あたし運動神経ゼロなんだからぁ。」
運動神経よりも、やる気があるかどうかの問題だと思うんだけど・・・

「じゃ、次行くわよ!」
高橋の打ったサーブは、俺が立っているのとは全然違う方向に大きく飛んでいった。俺が必死で追いかけるも、ボールは遙か遠くにぽとりと落ちた。しかし、やっぱりボールを追いかけることに代わりはなかった。

何せ高橋が打つボールがずいぶん手前で低いところとか、打ち上げてもずいぶん遠いところとか。俺だけが広場中を走り回って、腕が赤く腫れる前にぜいぜい言い始めた。そう言っている内にも、記録は悪化する一方。良くて二~三回にまで落ち込んだ。

「最初の元気はどうしたのよ?」
高橋は、口ほどにもないと言わんばかりにこう言った。

「元気って、お前なぁ・・・。」
俺にはもう、反論する元気すらなかった。

「あたしだって、やる気はあるのよ。」
高橋は、俺が言いたいことをきっちり理解しているようだ。

「でも、ボール飛ばすのがやっとなんだもん。」
確かに、百回飛ばすなんて至難の業。と言うより、不可能に近いのだ。

「さ、お茶でも飲んでっ。」
高橋はそう言って、自分のリュックサックから水筒を取り出した。

とにかく、こんな感じで意表を突いたゲームを色々と持ってきてくれた。そして、おいしそうな賞品に乗せられる・・・と。賞品と言っても、これ負けた方が駅までダッシュするとか、おんぶするとか、その程度だった。この程度の賞品で張り切ってしまうのが、男の子の単純と言うか、子供っぽいところじゃないかと思う。そして、彼女が勝ったら勝ったで、

「やったーっ!」
と、すごく嬉しそうな顔をして、負けたら負けたで、

「男の子だったら、負けてくれたっていいじゃない。」
と言う、女の子特有の言い訳を付けられ、俺に押しつけられるのだ。つまり、勝負の如何に関わらず、俺が貧乏くじを引く羽目になっているのだ。でも、高橋がかわいいから、憎めないのだ。

最初の内、授業の延長線と憂鬱だったESSも、結構面白かった。

何をするのかと言うと、例えば一ヶ月掛けて英語の寸劇を作ったり、英語のゲームをやったりするのだ。一番燃えたのは、双六。ただし、双六のゲーム板は全部英語で書いてある。例えば一回休みとか、ふり出しに戻るとか、これが英語で書いてあるのだ。そして、ハプニングと書いてあるマスがあって、ここに止まるとカードをめくってその指示に従わないと行けない。もしできなければ、ふり出しに戻るはめになる。このカード、もちろん英語で書くんだけど、引いた人にさせたいことを予め書くのだ。例えば、英語で歌うとか、グラウンドを一周走ってくるとかはまだおとなしい方で、もうちょっと危ない方向に行くと、例えば○○先生を殴ってくるとか、今付き合っている(または付き合ったことのある)彼(または彼女)の名前を言って、英語でおのろけ話をする・・・等々。

いくら何を書いてもいいとは言え、自分で引く可能性もあるから、大抵はあまり滅多なことは書かなかった。俺が書いたのは、

「コーラを買って、一気飲みする。」
だった。やがて、このカードがシャッフルされた。そしてゲームが始まり、

「一番ださいと思う奴を挙げ、その理由を英語で説明する。」
とか、

「英語で早口言葉を言う。」
というカードが次々とめくれていく中で、

「誰ーっ、こんなカード書いたのぉ!」
と、高橋が怒っていた。つまり、俺が書いたカードを引いたのだ。

「こんなの絶対できないよぉ!」
高橋は、半分泣きそうになった。それでも、周りからは

「一気! 一気!」
のコールが上がった。結局、涙ながらにお願いして、ふり出しに戻った。

で、俺はと言うと・・・

「この中で一番好きな奴のほっぺに、キスをする。」
だった。誰だ、こんなカード書いたのは。これはまず過ぎる。キスする相手は決まってるけど、果たしてこんな公の場所でキスシーンを発表していい物だろうか。しかも、さあ早くおいでと言わんばかりの、高橋の顔・・・。

「キス! キス!」
と、場内からは無神経なコール。ちょっと待て。俺にも決断という物が必要だ。しかし、どっちを選んだとしても、貧乏くじには違いない。だったら、俺の好きな方を・・・

場内からは、大きな拍手と歓声が上がった。はっきり言って、キスの味は覚えていない。でも、高橋のほっぺたが真っ赤になって、すごく恥ずかしそうだった。それだけは覚えている。

寸劇の時も、高橋と俺は同じ班になった。これは、選択法で選ぶ訳じゃなくて、くじ引きで選んだのだから、恨みっこなしだ。

さて、内容はどうしようか、と言う話になった。ラブストーリーにするか、コメディーにするか。多数決の結果、ラブストーリーになった。

「・・・とすると、ヒロイン役と、その相手役は決まったな。」
と言う声があがった。

「お願いですから、またキスだけはやめて下さいよぉ!」
俺がこうお願いした。

「よくわかってんじゃない。自分の配役。」
俺は、正直言ってやられたと思った。こうして、ほとんど先輩方に踊らされた格好で、ヒロイン役と、その相手役が決まった。

さて、肝心のシナリオはと言うと・・・。東京ラブストーリーのおいしいところだけをちょこちょこっと手直しして、英訳して完成。出来上がった台本を眺めてみると、まあ高橋と俺の台詞の多いこと。

「こんなにたくさんあるんですか、俺の台詞。」
と不満げに言うと、

「当たり前じゃない。」
と、簡単に言われてしまった。

あれから、いつもの公園で高橋と猛特訓した。この公園の中に野外ステージみたいなところがあって、ここで練習することになった。

「NGを最初に五回出した方が、ジュースおごるんだよ!」
と、いつもの通りの意地悪なゲームまでついてきた。この後、どっちが自動販売機に走ったか、これはきっと読者の想像を裏切らないことでしょう、たぶん。

「この台本、読めないよ。ふりがなつけてよ。」
と、俺がぼやきながらの練習。

「しょうがないわねぇ・・・。」
と、高橋が文句を言いながらも、俺のためにちゃんとふりがなを振ってくれた。もっとも、およそ中学校一年生でも読めるような単語にまでふりがなを振ってくれたのには、正直言って参った。

「わざわざisにまでふりがなを付けるなよ。いくら何でも、これは読めるって。」
俺が文句を言ったら、

「だって、あとで文句言われるのやだもん。」
と、逆に文句を言い返された。

こうして、何とか台詞を覚えて、いよいよ本番。内輪だけとはいえ、結構緊張した。

「いい。相手役って言うのは、ヒロインを引っ張らなきゃだめよ。」
と、高橋にまで念を押された。

「それにしても、ずるいよな。先輩はみんな台詞がないんだもん。通行人の役とかさぁ。」
俺は、今更ながらにこうぼやいた。

そして、結果はと言うと・・・見事に成功! 教壇をステージに見立てた特設会場は、大いに受けた。

「良かったね。大成功じゃない。」
高橋も、大喜びだった。

ある日曜日。いつものように、俺はパン屋さんのある駅で待ち合わせていた。そこへ、高橋が手ぶらでやってきた。おかしい。公園に行くつもりだったら何らかの小道具、例えばお弁当とか、ラケットとか、リュックいっぱいのお菓子とか、何か持ってくるはずなのに。しかも、いつもと通る道が違う。一体どこへ行くのだろう。

「知子ちゃん、一体どこへ行くの? 公園からどんどん離れてんじゃない?」
俺は、不思議そうな顔で、こう聞いた。

「確か小西君、うちに遊びに来たことなかったよね?」
「え!?」
俺は、頭の中が真っ白になった。と言うことは、これが高橋の通学路か?

「びっくりした?」
高橋は、俺の顔を見てけらけら笑っていた。

「だって、心の準備が・・・。」
「何それぇ!」
そう。俺は今まで、高橋の家はおろか、女の子の家に行ったことがなかった。しかも、俺は一人っ子だったから、女の子の部屋に入ったことがなかったのだ。もう周りの景色は見えなくなっていて、頭の中をあらゆる想像が駆けめぐった。

知子ちゃんって、どんな家に住んでるのかな。きっと、白い壁の洒落た一戸建てで、庭は一面緑の芝生で、ブランコなんか置いてあって、花壇にはチューリップなんか植えてあって、そして・・・。こんな庭を眺めながら、ロマンチックな気分に浸って、俺が知子ちゃんの肩にそっと手を回して、知子ちゃんはすっと目を閉じて・・・。

と、高橋が入っていったのは、何の変哲もない長屋作りの借家だった。もちろん、庭らしい庭なんかなくて、申し訳程度に自転車置き場と植木鉢が並んでいた。これじゃ俺の家と大した差はない。

「これが、知子ちゃんの家?」
表札に大きく「高橋」と書いてあったけど、あえて聞いてみた。

「そうよ。どうしたの?」
高橋は、不思議そうな顔をした。

「いや、うちと大して変わんないな・・・って。」
「何それ?」
俺の頭の中は、大道具係の面々が忙しく動き回って、イメージの建て直しに一生懸命だった。白い壁の洒落た一戸建てを大忙しで崩し始め、代わりに今目の前に立っている高橋の家を建て始めた。そして、大道具係の仕事は内装にまで及び、高橋の部屋を作り始めていた。知子ちゃんの部屋は、まさか壁のモルタルにひびが入ってるなんて事はなくて、もし入っていたとしても、とにかく壁紙か何かでお洒落な作りにして、洋間のフローリングになってなかったとしても、ピンク色のじゅうたんが引いてあって、レースでかわいらしいフリルの着いたカーテンが付いていて、白いテーブルとベッド。ひょっとしたら、ドレッサーまであるかも知れないな。そして・・・

玄関の引き戸を開けると、いきなり窮屈な階段になっていて、高橋は無双さに登り始めた。俺も、後ろについて行った。

ちょっと待った。もうちょっとでパンツが見えそうになる。知子ちゃんは何色のパンツはいてるのかな。できれば、オーソドックスに白ぐらいにして欲しいな。いや待て、こんな事を考えるのはよそう。知子ちゃんに怪しまれるじゃないか。取りあえず、パンツのことは忘れよう。パンツのことは。ああ、どうしてもパンツのことが頭から離れない。パンツのことが・・・。

高橋は、階段を上り詰めたところにある、ふすまを開けた。そして、この後に俺の目に入ったのは・・・何の変哲もない普通の部屋だった。六畳の和室で、勉強机とタンスが置いてあって、真ん中に家具調こたつがでんと置いてある、ただそれだけの部屋だった。

そうだよな。いくら何でも、男の子をいきなり自分の部屋に入れるなんてまねはしないよな。それにしても、勉強机が置いてあるところから想像して、誰かの勉強部屋だよな。知子ちゃんには、お兄さんが弟君がいるんだろう、きっと。あれっ。これは俺がいつも使ってる教科書と一緒だ。しかも、机の横に置いてある鞄、確か知子ちゃんのだよな。と言うことは、もしかしてここ知子ちゃんの部屋?

「あの・・・ここもしかして、知子ちゃんの部屋?」
俺は、つい口からこぼれてしまった。

「そうよ。どうして?」
高橋は、今更何を聞くのと言わんばかりにこう言った。

「いや、・・・女の子の部屋って、あの・・・、ピンクのじゅうたんが引いてあって、レースのカーテンが掛かってて、お洒落な家具が並んでて・・・。」
俺は、頭の中の大道具係が突貫工事で立てた内装を、そっくりそのまんま口にした。

「ばかね、それ少女マンガの見過ぎだってば。お茶入れるから、待ってて。」
高橋はこう言って、ふすまを開けたまま階段を降りていった。

そうだよな。言われてみれば、女の子の甘い香りがするよな。しかも、男の子の部屋にしては、やけに片づいてるし。ファミコンも置いてないし。マンガ本やゲームの攻略本のたぐいも置いてないし。その代わり、机の上に小物のたぐいがいっぱい置いてあるよな。随分かわいい目覚まし時計も置いてあるし。それにしても、落ち着かない部屋だな。退屈しのぎをしようにも、マンガもなけりゃゲームの攻略本もないし。およそ、じっと正座して待ってるしかないよな。

気が付くと、お盆を持った高橋が立っていた。

「まあ、何にもないけど、食べてよ。」
高橋は、クッキーと紅茶を持ってきた。

「ありがとう。」
俺の顔に、いつもの表情はなかった。ぼそぼそとしたクッキーが喉につっかえて、飲み込むのが精一杯だった。普段の俺だったら、こんなクッキーで喉を詰まらせるはずないのに。

「どうしたの、表情が堅いよ。」
「いや・・・、別に。」
と言いつつも、俺の頭の中は、また要らない想像が頭の中を駆けめぐっていた。

どうでもいいけど知子ちゃん、ふすまを開けっ放しだけど、いいのかな。普通男の子を部屋に呼んだら、ばれないようにふすまをぴったり閉めるよな。少なくとも、俺が女の子を呼んだらそうするよな。しかも、家の中がやけに静かだし。帰ってきた知子ちゃんが、そのまんまお茶を入れに行ったし。と言うことは、もしかして知子ちゃんと一つ屋根の下二人っきりってことか。と言うことは・・・もしかしてこれから先、ムフフと笑っちゃう世界が待ってるのか!?

「ねぇ、この家って誰もいないの?」
俺は、つい口が滑ってしまった。

「うん。お父さんは、出張に出かけてるし。お母さんは、旅行に行ってるし。」
高橋は、平然とこう言った。男の子の気持ちからすれば、こう言うことをすらりと言って欲しくないなって言うのはあった。でないと、また余計な想像が・・・。

そうか。やっぱり、二人っきりか。と言うことは、今ここで何をやっても親ばれしないってことか。と言うことは、もしここで知子ちゃんを押し倒したとしても、誰も文句は言わないよな。いや、いきなり知子ちゃんから平手打ちを食らうかも。でも、もしその気がなかったとしたら、わざわざこんなシチュエーションを作ることはないな。と言うことは、やっぱりその気があるって事か。

「旅行って?」
俺は、こんな事聞いていいのかなって思った。

「そう。近所のおばちゃんと。お父さんがいない間がチャンスだって、今日出かけちゃった。今晩泊まるから、帰ってこないよ。」
お願いだから、そう言う男の子のハートをこちょこちょとくすぐるようなことを、平気な顔をして言わないでよ。俺は、そう思った。でないと、また・・・

そうか。お父さんがいない間がチャンスか。もしかして、親子揃って考えることが一緒だったって。と言うことは、ここで親には言えない秘密を作ったとしても、ばちは当たらないよな。それにしても、知子ちゃんって兄弟はいないのかな。もしここで知子ちゃんとエッチなことをして、突然玄関ががらりと開いてなんて事になったら、いっぺんに足が付くよな・・・。そうすると、大ピンチだぞ。これは。ああ、俺は一体どうすりゃいいんだ・・・。

「ふうん。で、知子ちゃんには兄弟がいないの?」
俺の頭の中は、爆発寸前だった。

「うん。一人っ子だもん。小西君は?」
「俺も、一人っ子だよ。」
まずい。これは非常にまずい。俺はそう思った。そして、また・・・

そうか。と言うことは、本当の本当に二人っきりなのか。しかも、もし俺がここで外泊したとしても、親ばれしないと言うことか。いや、明日は学校だし、教科書持ってきてないから、それはまずいな。さて、どうしようか。いきなり押し倒したら、まずいよな。やはりここは、ちょっとずつ近づいていって、いつの間にかぴったりくっついてたって言うシチュエーションが無難だな。ああ、それにしてもミニスカート姿が目に毒だな。およそ、大爆発したら本当に押し倒してしまうかも。ああ、俺の理性よ。もうちょっとだけ、がんばってくれ。

「取りあえず、買い物に行こう。朝お母さんに『ご飯どうするの』って聞いたら、『勝手に作って食べて』って。その代わり、軍資金もらってるから。」
高橋は、こう言って一万円札を見せびらかした。かくして、高橋と俺は、近所のスーパーに買い物に出かけた。

「ついて来てもいいけど、もし飽きたりはぐれたりしたら、ここで待っててよ。あ、そうそう、何食べたい?」
高橋は、無邪気にこう聞いた。

「任せるよ。知子ちゃんの得意なやつ。」
俺は、こう言った。

「そうねぇ・・・売場で何が安いか見てから考えるわ。あ、先に言っとくけど、味の保証はないからね。」
高橋は、こう言って売場に歩いていった。しかし、暇になるとろくなことを考えない物で・・・

ご飯は勝手に作って食べてって、いくら女の子とは言え随分な言い方だよな。それにしても、知子ちゃんも売場で安い物見て献立を考えるって、これは完全に主婦の発想だよな。しかも、このビニール袋に詰める手つきが慣れてること。これは絶対買い物に慣れてるよな。と言うことは、知子ちゃん家ではこれが日常茶飯事なのか。とすると、知子ちゃんはあんまり可愛がられていないのかな。それとも、将来旦那ができたときに困らないように、今から訓練させてるのか。どっちにしても、知子ちゃんがこのまま成長したら、きっといい奥さんになるよな。

「それにしても、安い物見てメニューを考えるなんてすごいよな・・・。」
袋詰めを手伝いながら、俺はふとこう言った。

「だからぁ、余ったお金はお小遣いになるんだってば。」
高橋は、およそ聞くんじゃなかったと言いたくなる答えを返した。

そして、高橋は台所に立った。買い物袋から、玉ねぎと人参、ジャガイモ、牛肉を取り出した。それをさいの目切りにして、大きな鍋の中に投げ込んだ。どうやら、カレーを作るつもりらしい。

「だって、これだったら何日か持つじゃない。帰ってきたら、電子レンジでチンして出来上がりだもん。」
・・・だそうだ。いやはや、恐れ入りました。

「まだまだ時間かかるからさぁ、もし暇だったらテレビでも見ててよ。」
高橋は、エプロン姿でこう言った。でも、まさか人の家に来てごそごそするのも気が引けるから、俺は高橋の部屋に戻ることにした。で、相変わらずじっと座っていた。じっと座ると、頭の中でまた悪魔が囁き始める・・・

知子ちゃんのエプロン姿、すっごくかわいかったな。後ろから食べてしまいたくなるぐらい、かわいかったな。このまま台所に行って、いたずらしてやろうかな。いや、それはいくら何でもまずいよな。片手に包丁持ってたとすると、本当にやばいよな。でも、このまま何もしないのは、もったいない気がするな。それにしても、いつものゲームがないのが気になるな。ひょっとして、あのカレーに何か仕掛けをしてあるのかな?

「あれ、テレビ見てるんじゃなかったの?」
すでにエプロンを外した高橋が、目の前に立っていた。

「うん。なんか人の家うろうろするのも悪いから。でも、もうできたの?」
俺は、こう言った。

「ううん。今煮込んでるとこ。それに、ご飯もまだ炊けてないし。それよりもさぁ、テレビ見よう。」
高橋はこう言って、下に降りた。俺も、一緒に階段を降りた。階段横の引き戸を開けると茶の間になっていて、テレビがでんと置いてあった。高橋は、おもむろにスイッチを入れた。ちょうどバラエティー番組をやっていた。

「何か、面白いのあんまりないね・・・。」
高橋が、ぽつんとこう言った。

「ま、取りあえず見ようよ。」
特に娯楽らしい物がなくて暇をもてはやしていた俺は、こう言った。やがて、奥の方からいい匂いがしてきた。

「もうそろそろかな? ちょっと待ってて。」
高橋が、茶の間の隣にある台所に行った。しばらくして、高橋がカレー皿を二つ持ってきた。

「おいしいかどうかわかんないけどね。」
高橋は、一番最初に言い訳をした。そして、高橋が心を込めて作ったカレーの味はと言うと・・・

「おいしいじゃない、これ。」
俺は、思わずこう言った。

「そう。良かったぁ!」
高橋は、それはそれは嬉しそうな顔をした。このカレーに、サンドイッチみたいな仕掛けでもしてあるんじゃないかと最後まで疑ってたけど、それはなかったようだ。実はこれレトルトのカレーだったの、というのもなかった。俺は、久々に安心して食べられる昼ご飯だなと思った。

「ああ、食った食った・・・。」
我ながら、よく食べた。二回もお代わりした。

「何か、食ったら眠くなっちゃったよ。」
俺はこう言って、茶の間にごろりと横になった。

「でしょお!」
ここで、高橋はにやりと笑った。まさか。このカレーにはやっぱり何か仕掛けがしてあったのか・・・。

「実はね。このカレーには、睡眠薬が仕掛けてあるの。」
「え!?」
やっぱり。知子ちゃんのことだから、きっと何かあるだろうとは思っていた。しかし、睡眠薬が仕掛けてあるとは。一体どう言うつもりなんだろう。まさか、ここで心中しようなんて心づもりじゃないだろうな。いや、知子ちゃんと一緒に死ぬのが嫌と言うつもりはないけど、一体なぜ?

「あーあ、あたしも眠くなっちゃった。」
高橋も、俺の横にごろりと横になった。そして、俺にもたれかかってきた。

ちょっ、ちょっと待った。む、胸が・・・胸が当たってる・・・。ああ、女の子の胸って、なぜこんなに柔らかいんだろう。きっと、Cカップぐらいはあるんじゃないかな。いや、そんなにはないかな。でも、まだ成長してる途中だから、将来的にはCカップぐらいに・・・。いかん。このままだと、本当にエッチなことをしてしまうぞ。落ち着け。まずは胸のことは忘れよう。胸のことを考えるから、だめなんだ。ああ、だめだ。頭からこびりついて離れない。

「本当はね。入学式の時から、いいなって思ってたんだぁ・・・小西君。」
高橋は、更にこんな言葉を付け加えた。しかも、背後から女の子の甘い香り・・・

おい。これはいよいよだぞ。ここでもし、知子ちゃんを抱きしめられなかったら、男性失格だぞ。さあがんばれ。何を躊躇してるんだ。迷うことはないんだぞ・・・

気がついたら、俺は高橋をぐっと抱きしめていた。

ああ、女の子の体って、どうしてこんなに柔らかいんだろう。そう言えば、司の体もすっごく柔らかかったぞ。どっちが柔らかいだろう。いや、待て。ここで、こんな事を比べるな。司は、女の子じゃないんだぞ。知子ちゃんは、正真正銘の女の子だぞ。比較の対象にならないはずなのに、なぜ司のことを思い出すんだ・・・

「小西君、もしかしてキスするの初めて?」
高橋は、甘い声でこう聞いた。

「うん。」
俺は、こう答えた。

「嬉しいな。あたしが初めての女の子なんだ・・・。」
高橋のほっぺたが、いつになく赤くなっていた。

「知子ちゃんも、初めて?」
俺は、たまらない気持ちでこう聞いた。高橋は黙ったまま、こっくりとうなずいた。

「嬉しいよ・・・。」
俺は、高橋の顔にかかっている髪の毛を、丹念によけた。そして・・・

「ほんのりと甘いね・・・。」
これが、俺の二回目のファーストキスの味だった。はっきり言って言葉には表せないけど、そこを無理矢理字を当てはめると、そう言うことだった。

「小西君・・・。お願い、好きにして・・・。」
目の前からテレビとテーブルがすうっと消えて、高橋の顔しか見えなくなった。俺は、今まで高橋がこんなにかわいい顔に見えたのは初めてだった。そして、次第にその高橋の顔もぼんやりとしてきた。俺の意識も遠くなってきたけど、高橋の意識も遠くなっていたはず。レモンのような香りとも、蜂蜜のような味とも、何とも表現できない、甘い甘い世界。俺は汚れた天使と一緒に、その世界に一歩、また一歩と足を踏み入れていった。

「あ、痛・・・。」
高橋が苦しそうな顔を、更に険しい顔に変えた。

「いいの、続けて・・・。」
また、高橋の顔がぼやけてきた。理性という文字は、もうとっくの昔に飛び去っていた。ああ、このままどこか飛んで行ってしまいそう・・・。ああ、もうだめだ・・・。

俺は、小さなうめき声を上げた。気がつくと、高橋がくすんくすんと鼻を鳴らしていた。

「ごめんね、泣いちゃって。なぜなんだろうね。本当は嬉しいはずなのにね・・・。」
高橋は、それでもくすんくすん言っていた。それがまた、かわいらしいこと・・・。

この事件の後しばらくしてのこと。学校からの帰り道、俺の背後から高橋が追いかけてきた。

「小西君、一緒に帰ろ!」
・・・と、ここまではいつもと一緒だった。やがて、駅についた。これも、いつもと一緒だった。ところが、いつもは俺と反対側のホームに歩いて行くはずが、今日は俺と同じホームに立った。

「あれっ、知子ちゃんの家って、反対側じゃなかったの?」
俺は、不思議そうにこう聞いた。

「いいの。こっち側で。」
様子がおかしい。一体高橋の身に何が起こったのだろう。俺には全く見当がつかなかった。やがて、高橋は俺と同じ電車に乗った。どうやら、俺について来るつもりらしい。そう言えば、彼女の家に遊びに行ったことはあったけど、俺が彼女を家に呼んだことはなかった。それにしても、なぜ急に?

「本当にいいの?」
俺は、窓の外をぼんやり眺めている高橋に、こう聞いた。

「いいの。今日は帰りたくないんだもん。」
高橋は、涙ながらにこう言った。これは絶対何かある。俺はそう思った。

そして、俺は電車から降りた。高橋も、一緒に降りた。そしていつもの通学路を通過して・・・それでも高橋はついてきた。そして、公園のベンチに座った。高橋も、俺に並んで座った。

「ねぇ、知子ちゃんおかしいよ。何かあったの?」
俺がこう言った瞬間、高橋はわっと大泣きし始めた。その理由というのが・・・

話は、俺が高橋の家に遊びに行った日にさかのぼった。あの日、高橋のお父さんは出張に行って帰ってこなかった。しかし、この出張というのが嘘で、実は会社の女の子と旅行に行ってたのだ。いわゆる、不倫というやつである。それが、ひょんなことから高橋のお母さんにばれたのだ。以来、家に帰ると大喧嘩の毎日。しかも、離婚する、しないと言い争っているらしい。高橋は、たまらず家を飛び出したのだとか。

「もう嫌っ! もう絶対家に帰らない!」
そしてまた、高橋は大泣きし始めた。これで、高橋が鞄をやけに重そうに持っている理由もわかった。

「じゃ、俺の家に行くか?」
結局、この結論に落ち着いた。さて困った。俺の部屋はマンガやら何やらでいっぱい。女の子が入る部屋じゃないなと思った。

「それでもいいから、連れてって!」
と高橋が言うので、かまわず俺の家に案内した。

「やっぱりね・・・。」
これが俺の部屋に一歩足を踏み入れた、高橋の感想だった。

「まあまあ、何にもないけど食べてよ。」
俺の母さんが、嬉しそうな顔をしてお茶とおせんべいを持ってきた。

「覚悟はしてきたけど、こんなに汚いとは思わなかったわよ。」
高橋はそう言って、部屋の中を片づけにかかった。

「でも、テレビがあるっていいわね。」
高橋は、大きなテレビをうらやましそうに言った。

「だって、テレビなかったらファミコンできないじゃない。」
俺は、こう言ってテレビを付けた。この番組がやけに面白くて、さっきまで大泣きしていたのが嘘のように、高橋は大笑いしていた。俺も、大笑いしていた。やがて、深夜のニュースに変わった。

「取りあえず、知子ちゃんはあのベッド使ってよ。」
俺は、いつも自分が寝ているベッドを指差した。

「小西君は?」
高橋は、こう聞いた。

「俺は、ここでいいよ。」
「そんなの悪いわよ。あたしこっちでいいから・・・。」
「女の子に雑魚寝させるわけにいかないじゃない。」
「ありがとう。でも、本当にここでいいの。だって、あたし居候の身なんだもん。」
俺が何度も勧めても、高橋はベッドに行こうとしなかった。仕方なく、俺がベッドで寝ることになった。

「知子ちゃん、パジャマは?」
「ない。」
高橋は、こう言った。

「困ったな・・・。」
俺は、何かいい方法はないか考えていた。

「あ、でも体操服持ってるから、いい。」
高橋はこう言って、カッターシャツのボタンを外し始めた。

「エッチ! 後ろ向いてよぉ!」
この怒ってる顔が、またかわいかった。こうして、俺はパジャマでベッドの上、高橋は体操服姿で畳の上に寝ることになった。電気を消した瞬間、また悪魔が耳元で囁き始めた・・・

高橋の寝顔、俺まだ見たことなかったな。一度見てみたいな。それにしても、女の子が眠ると、甘い香りがぷんとするな。ちょっと汗くさい気もするけど。いっそ、夜這いでも掛けてみるとするか。待てよ。もし高橋が起きてたら、平手打ちかも。いや、それぐらいの覚悟でここに泊まってるはずだ。だったら、ちょっとぐらいはいいんじゃないか。

こうして俺は、眠れぬ夜を過ごした。俺は、右へ左へと寝返りを打った。でも、寝苦しかった。それを、何とか強引に寝ようとした。俺の意識が遠くなり、右に寝返りを打とうとした瞬間。右側にふわりとした感触。しかも、あったかくて。どうやら、眠れなかったのは高橋も一緒だったらしい。俺は、高橋を起こさないように、抱きしめながら眠った。

翌朝、俺が目を覚ましたときには、高橋はとっくにいなくなっていた。・・・と言うことは、昨日の事件は夢だったのか。

俺は、高橋のことを気にしながら、学校に行った。

「おはようっ!」
教室では、高橋がもう教室にいた。俺は、なぜかほっとした。そしてまた、いつものように授業が始まった。

そして、また日曜日が来た。この日だけは、いつもと待ち合わせ場所が違った。いつも待ち合わせしている駅から、一つ手前の駅だったのだ。ここも改札は一つしかないからはぐれる心配はなかったけど、なぜわざわざ手前の駅で待ち合わせているのか、俺にはわからなかった。

「お待たせ!」
高橋は、制服のまま現れた。

「あれっ、知子ちゃんって、制服?」
俺は、びっくりしたような声をあげた。

「うん。ちょっと事情があってね。」
高橋は、何事もなかったかのようにこう言った。

「じゃ、小西君。一番安い切符買って!」
高橋がこう言ったので、俺は自動券売機に並んだ。高橋は、この列に並ばなかった。そして高橋は、制服のポケットから定期入れを出した。俺は、さっきの切符を自動改札機に入れた。そして行き先はと言うと、いつも待ち合わせしている駅だった。

「なあんだ。それだったら、ここで待ってたのに。」
俺は、こう言った。

「いや、ちょっと事情があるの。それよりもさぁ、あそこのパン買っていこう。」
高橋は、いつもいい匂いのしている焼きたてのパン屋さんを指差した。

「そう言えば、ここでパン買うの初めてだったよね。」
高橋は、店内に入った。俺も、つられて店内に入った。狭いパン屋さんの中には、おいしそうな匂いのするパンがいっぱい並んでいた。それを高橋は、慣れた手つきでトレーに乗せた。俺も、おいしそうだなと思うものをトレーに乗せた。

そして、行き先はと言うと、いつもの公園だった。

「確か、この植物園に行くのも、初めてだったよね?」
高橋はこう言って、ポケットから三百円を出した。

「わぁ、綺麗ね。」
温室の中で、高橋ははしゃぎはじめた。

「へぇ、バナナってこんな木なのか。」
俺も、こんな事を言っては喜んでた。しかし、いつものゲームが気になっていた。今度はお弁当に仕掛けるわけには行かないし、何か小道具を持ってきている様子はないし、一体いつどんなゲームが待っているのだろう? 俺は、それが一番心配だった。

「ねぇねぇ、あっちにこ~~~んなおっきなお花があるよ。」
高橋は、両手で大きく丸を描いた。高梁について行ってみると、確かにおっきな花があった。

「でも、何かこれ結構気持ち悪いよ。」
何しろこのお花、普通に咲いているお花とはスケールが違った。何しろ、高橋の顔がすっぽりと入るぐらいの大きさ。しかも、毒々しいぐらいに赤茶色いんだから。

こんな感じで、いくつもある温室の中を、楽しそうに眺めていた。そして、出口を出た頃。

「小西君、今日見てきた植物の名前、十個言える?」
高橋は、ふいにこんな事を聞いた。

「ちなみに、言えなかったら罰ゲームだよ。」
出た! 高橋のことだから、何かあるなとは思っていたんだ。しかし、俺は植物の名前を全然覚えていないぞ。待て。落ち着いて考えよう。確かバナナが置いてあったし、サボテンもあったな。あと、あのでっかい花は、何て名前だったかな?

「はい、残念でした。罰ゲームだよ。」
高橋は、にやりと笑った。

「今度は何をさせるんだよ。」
俺は、こう言った。

「ま、取りあえず、昼ご飯にしよう。」
高橋はこう言って、植物園のそばのベンチを指差した。そして、朝買ったパンを取り出した。

「小西君、これあげる。」
高橋は、ウィンナーの入ったパンを俺に差し出した。

「ありがとう。」
俺は、袋からさっきのウィンナーパンを出して、大きくがぶりとかじりついた。あ、これっておいしいと思った瞬間、舌の上が突然ひりひりし始めた。続いて、口の中が火事になり始めた。そしてこの火事は、瞬く間に喉まで延焼した。何だこれは。すっごく辛いぞ!

「はい、やりましたぁ! あのパン屋さんの人気商品で、激辛ウィンナーパン。これが罰ゲームでした。」
高橋は、苦しむ俺を見ながら、すっごく嬉しそうにはしゃいでた。そんなことはいいから、何か飲み物をくれと、俺はジェスチャーを送った。

「あ、ごめん。ジュース買うの忘れた。」
わざと買ってこなかったんだろう。俺は、そう言いたくなった。でも、口から喉から真っ赤に焼けて、声が出なかった。きっと高橋のことだから、もしあそこで植物の名前を十個答えられたとしても、なんだかんだと理由を付けて、俺にこれを食べさせるつもりだったんだろう。高橋の罠にまんまとはめられた俺は、一目散に自動販売機まで走った。その様子を見ていた高橋は、大いに笑っていた。

そして次の日。

「小西君ごめん、教科書見せて。」
と、いつもちゃんと教科書を持ってくる高橋が、珍しくこんな事を言った。変わったことと言えばこれぐらいで、あとはごく普通の日だった。

そして、午後のこと。授業中にいきなり、高橋が職員室に呼ばれた。思うに、高橋のお母さんが説得に来たのだろう。しかし、もうかれこれ授業が終わるというのに、高橋は教室に帰ってこなかった。次の授業が終わっても、高橋は帰ってこなかった。俺は、いよいよ気になった。しかし・・・

その理由は、翌日にわかった。高橋の両親が、ついに離婚したのだ。しかも、お母さんが実家に帰るとかで、高橋は突然大阪に転校することになったのだ。

「えっ!」
俺の視界から、教室の風景がはらはらと崩れていった。もう高橋とは会えないなんて。しかも、さよならすら言えなかったなんて。天使というのは、何とも残酷な物だ。俺はそう思った。

男の子は、どんなに辛くても泣いちゃいけない。そんなこと一体誰が決めたんだ、俺はそう心の中で叫び続けた。これで泣けなかったら、はっきり言って人間じゃない。大きな声で泣き叫びたいけど、あんまり悲し過ぎて声も涙も出なかった。

それから・・・。家に帰った俺は、おもむろに鞄の中の教科書を出した。高橋が見せてと言っていた教科書を開くと、ピンク色の封筒が入っていた。開けてみると、

「ありがとう、小西君。あたし、小西君のことはきっと忘れない。大阪に行っても頑張るから、小西君も頑張ってね。さよなら...」
とだけ書いた便せんと、あの公園で撮ってもらった写真が入っていた。俺は、この封筒を捨てたい気持ちになれなかった。

「最後の最後まで、知子ちゃんにやられたな・・・。」
俺は、こうつぶやいた。そして俺は、高橋が大学生になって帰ってくると信じていた。きっとかなわぬ夢かも知れないけど。