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金沢の観光名所の一つ、金沢城公園です。金沢城は、加賀藩前田家の居城だったのですが、天守閣は現存しません。城跡の一体が、金沢城公園として整備されています。
金沢駅からは北鉄バスか西日本JRバスに乗って、 兼六園下・金沢城バス停で降ります。
手前が兼六園下・金沢城バス停、後ろに見えるのが石川橋です。兼六園とは石川橋を挟んで隣同士でして、兼六園と併せて行ってみるといいでしょう。
石川橋の上です。兼六園から金沢城公園に行く場合、石川橋を通ります。この先に、石川門があります。
元々金沢城周辺は、加賀一向一揆の拠点となっていた、金沢御堂でした。天正8年(1580年)にその一揆を攻略した後、金沢城を築いて佐久間盛政が入城したのが始まりです。後に賤ヶ岳合戦で佐久間盛政が討たれてしまい、前田利家が金沢城に入城しました。
以降、加賀藩前田家の居城となったのですが、江戸時代から明治時代にかけて金沢城は全焼してしまいました。跡地には金沢大学があったものの、平成7年(1995年)に移転しまして。石川県が跡地を金沢城公園として整備したというわけです。
石川門です。この奥に、三の丸北園地と三の丸広場があります。
場所は変わりまして、大手門口です。その昔、ここに大手門がありました。金沢城公園の北側に位置していまして、近江町市場へはここから歩いて行けます。
大手門の先に、新丸広場があります。その昔、この周辺には加賀藩の重鎮たちが政務を行う場所として利用していまして、現在でいうところの官庁街というところでしょうか。
新丸広場はご覧の通り、広~い芝生になっています。この広場の先に、河北門(かほくもん)があります。
河北門です。新丸広場から金沢城公園の中心部に行くときは、ここから入ります。河北門の先が、三の丸北園地です。
河北門は二重になっています。こちらが、河北門の先にある、河北門二の門です。河北門と華北に乗門の両方を閉じると閉じ込められる仕組みになっていまして、敵を上から一網打尽にできるというわけです。
河北門二の門付近から撮影した、三の丸北園地です。写真奥に、石川門があります。
河北門二の門付近から撮影した、新丸広場です。
同じく、河北門二の門付近から撮影した、新丸広場です。
新丸広場の隣、追手門から見ると新丸広場の奥に、湿生園があります。
三の丸広場です。三の丸北園地と河北門の隣にあります。
ご覧の通り芝生になっていまして、その先に五十間長屋(ごじゅっけんながや)が見えます。写真左側の櫓が橋爪門続櫓(はしづめもんつづきやぐら)、右側が菱櫓(ひしやぐら)です。
五十間長屋を横から見ると、こんな感じです。お堀がありまして、写真手前が菱櫓、奥が橋爪門続櫓です。
五十間長屋の右側、菱櫓です。
五十間長屋の左側に、橋爪門(はしづめもん)があります。橋爪門は、橋爪門続櫓と一体になっています。
三の丸広場から奥へ行くと、鶴の丸休憩館という休憩所があります。鶴の丸休憩館からは、橋爪門がキレイに見えます。
鶴の丸記念館から奥へ行くと、漆喰塗りの倉があります。国の重要文化財、鶴丸倉庫です。
この鶴丸倉庫、明治時代に建てられたものと思われていたのですが、調査した結果、嘉永元年(1848年)に建てられたことが判明しました。お城の中にある土蔵としては、国内最大級と言われています。
鶴丸倉庫の先は、うっそうと茂る林になっています。本丸園地です。
金沢城の本丸は、この園地の中にあったと考えられています。この写真は、東の丸があったと思われる場所です。
ただの林にしか見えませんが、このあたりに本丸があったと考えられています。
更にその奥へ行くと、石垣があります。戌亥櫓跡(いぬいやぐらあと)です。
橋爪門の先に、二の丸広場があります。戌亥櫓跡から撮影しました。
戌亥櫓跡に、石垣があります。鉄門です。
三十軒長屋です。こちらも、国の重要文化財です。
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