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宗谷岬と、その背後にある小高い丘は、宗谷岬公園として整備されています。写真は、宗谷岬展望台です。展望台の部分がガラス張りになっていまして、宗谷岬を一望できます。無料休憩所を兼ねているのですが、冬季だからなのか閉鎖されています。おいおい、冬季閉鎖って、展望台がガラス張りなのは冬でも快適に宗谷岬を見れるようにするためなんじゃ???
で、小高い丘を上がってみました。宗谷岬方向をパノラマ写真で写すと、こんな感じです。
平和の碑です。冬季だからなのか、本体はビニールで保護されていました。
旧海軍望楼です。樺太(現:サハリン島)がロシア領となり、宗谷海峡が国教となったため、1902年に旧日本海軍が建てました。当時最強と言われたロシアのバルチック艦隊を監視するという重要なミッションが与えられていました。日露戦争の終結でその役目は解かれたものの、無線通信基地や対潜水艦監視基地として使用されました。稚内市では珍しい、現存する明治時代の建物です。
旧海軍望楼から見た宗谷岬が、こんな感じです。
あけぼの像です。北海道の牛乳生産量100万トンと、飼育乳牛50万頭突破を記念して、1971年に作られました。彫刻家:峯 孝氏の作品で、牧柵の前で若い男女が宗谷丘陵を眺める姿をイメージしています。ここは稲作の北限線よりも北に位置するため、農業ではなく酪農が中心です。
で、その宗谷丘陵をパノラマ写真にすると、こんな感じです。かなり広くて、遥か先にオランダ風の風車小屋があるのですが、あそこまで行く元気はありませんでした。ごめんなさい。
ラペルーズ顕彰記念碑です。ラペルーズ伯爵はフランスの海軍士官でして、北海道と樺太(現:サハリン島)の海域に海峡を発見しました。世界海洋界はこの功績を讃えて、この海峡をラペルーズ海峡と命名しました。ヨーロッパ人として初めて宗谷海峡を通過してから220年を記念して、2007年にこの記念碑が建立されました。
宗谷岬灯台です。北方向にしか海がないので、海がない方向には明かりが漏れない仕組みになっています。
宮沢賢治文学碑です。宮沢賢治は、1923年(大正12年)8月に、稚泊連絡線で宗谷海峡を渡り、樺太(現:サハリン島)を旅しました。その旅をモチーフに多くの詩を残しています。この碑に刻まれているのは、未定稿の文語詩「宗谷(二)」の一説です。
世界平和の鐘です。1954年(昭和29年)に日本の一個人が、戦争の悲惨さ、核廃絶の尊さを訴えて、当時の国連加盟国65か国のコインと銅を鋳造した金を、ニューヨークの国連本部に寄贈したのが始まりです。同じ鐘を世界に設置して、その思想を広めようとする運動で作られた第1号がこの鐘で、1988年(昭和63年)に建立されました。
81か国の人々から寄せられたコインやメダルで鋳造され、重さ365kg、高さ60cmあります。9月21日の「国連平和の日」と、9月1日「大韓航空機遭難慰霊の日」などに鐘を打つそうです。除夜の鐘で打つ必要がないためか、ビニールで保護されていました。
カップルで鳴らせば幸せになれる鐘ではありません。子育て平和の鐘です。
稚内市民の総意による10円玉募金で寄せられた浄財150万円と、世界98か国から寄せられたコインやメダルを元に、世界平和の鐘と同じ1988年(昭和63年)に建立されました。
祈りの塔です。大韓航空機撃墜事件を受け、事故海域を望むこの高台に遺族会が建立したものです。
大韓航空機撃墜事件は1983年(昭和58年)9月1日、ニューヨーク発ソウル・金浦空港行きの大韓航空KE007便が、コースを外れてサハリン上空を侵犯し、ソ連の迎撃戦闘機のミサイル攻撃を受けたという事件です。大韓航空機はサハリン西海域のモネロン島沖に墜落し、日本人28人を含む乗員・乗客269名全員が死亡しました。
塔の高さ19.83mは事件発生の年、16枚の羽根は犠牲者の母国数、269枚の白影影石は犠牲者の数をそれぞれ表しています。
トイレと土産物店(海産物店?)とラーメン屋さんです。恐らくは冬季休業なのだと思うのですが、扉や窓は厳重に閉まってまして、潰れたお店なのかと思ってしまいました。
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